先山の弁当をねらう狐

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ページ番号1000789  更新日 平成30年2月28日 印刷 

先山は口切り(注)の背で二度、三度力一杯矢を張った。
「コーン・コーン」
その音が何度か木霊になって返ってくると、松の大木はわずかに震動した。更に四度五度、切り口がだんだん開き、巨木はその枝を青空に少しずつ移動させながら傾いていったが、その倒れるであろうちょうど真下へ向かって仲間の先山が悠々と歩いてくる。
「危いぞっ、どけっ」力一杯叫んだその声と同時に大木は地ひびきを立てて倒れ、歩いてきた先山が下敷きになってしまった。さあ大変だ。
青くなって、倒れたざわめきがまだおさまらぬつよい枝を大斧で払ってその下へもぐり込み、引っぱり出して見たらそれは仲間の半纏(はんてん)で人影は全くなかった。
ほっとして汗を拭きながら大きな声で呼んで見たら、仲間は揃って集まってきたが、みんな怪訝な顔をしていた。楔(くさび)を打ち込む反対側へ木が倒れることぐらいは素人でもわかっている。ましてや木を倒すことが商売の先山が木の倒れる方へ近づいて行くことなどあるはずがない。
「妙なことがあるものだ」と話し合いながら昼飯にしようと思ったら、みんなの弁当が全部失くなっていた。
「またやられた」
歯噛みして口惜しがったが、相手の姿が全くわからず、術にでも掛けられているような状態なのでどうにもならない。その後も度々弁当を取られるので、先山たちも用心して、手頃の木の高い所へ縛りつけたり、釣るしたりするようにしていた。
松の木は、二月になるともう水を吸い上げ始め、切り口に脂を噴いて鋸をくい、中休みをすると鋸が動かなくなる。そこで先山の一人が、仕事の都合で早めに昼食にしようと、縛りつけた弁当をほどいていると、だしぬけに鉈(なた)が飛んできて太腿を切り裂いた。鉈を投げたのはふだんから用心深い年をとった先山だったが、狐が弁当を盗りに来たと錯覚し、遠くから思いきって投げたものが運悪く当たってしまったのである。
もう弁当どころではない。昼飯などそっちのけで右往左往していたが、当時地方には珍しい蘭方医が地元の「富貴楽」という料亭に宿泊していたので、そこへ担ぎ込んだ。当時の蘭法外科は荒っぽかったようで、「鋭い刃物による傷だから心配はない」と焼酎で傷口を洗い、木綿針を一旦火で焼いて消毒し、絹糸を何本も撚り合わせてこれに通し、焼酎漬けにして消毒すると「ぶすぶす」と縫い合わせた。
急所を外れていたし、傷も思ったより浅かったので順調に回復したが、「たちの悪い狐を退治する豪傑はいないかなあ」と先山たちは集まると必ず話し合ったというが、それは先山ばかりでなく村人たち一同の声でもあった。
こんなことから、組んで仕事をしていた早川(綾瀬市)や杉久保などの先山たちが「大谷の山で仕事をすると魔がさす」といって嫌がったので、天台、打越、樽井、堂山など、足場のよい所にありながら伐り手がなく、大きな木が沢山売れ残っていた。
これは明治になってからの話である。

(注)先山
木を伐ること即ち「木伐る」が転じて木を伐る人を木樵(こ)りと呼ぶようになったものだが、その木を伐ることを専業とする人たちをこの土地では「先山」と呼ぶ。山中で仕事をする統率者という意味もある。「前き山」とも書くが、木材加工はまずこの木を伐ることから始まり、一切の木材加工に先行するから先山だという説もある.

口切り
木を倒すにはまず倒そうとする方向に切り口を開けるが、その切り口を開けるために使う刃幅のせまい鋭い斧を口切り斧というが通常略して「口切り」と呼ぶ。よく似ているので薪割斧と混同され易いが、薪割りは割るのが目的であるから刃先は鋭利でなくとも、両方へ押しひろげる力が強く作用すればよいので鈍角の楔形で蛤刃であるが、口切りは切り口を作るためのものであるから鋭角で刃も鋭い。
鉞(まさかり)・・・鐇とも書く、斧に似た大形の木を伐る道具。足柄山の金太郎のかついでいるのがこれ。古くは武具刑具にも用いた。


小形の鉞、木を伐ったり割ったりする道具。

釿(よき)
小さい斧で手斧ともいう。昔、農家作りの梁を八角に削るにはこれを使った。荒削り用である。

丁斧(ちょうな)
手斧の音便で大工道具の部類に属し、斧で荒削りした木材面を平らにするための刃物。木樵りの使う釿とは全く違うものである。


木を割る時の楔のことで、木挽きや先山用語。張るは打ち込むことで、木の間に強く楔を打ち込むことを「矢を張る」という。

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