馬糞の土産

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ページ番号1000766  更新日 平成30年2月28日 印刷 

狐に化かされて馬糞をおむすびと思って食べてしまったとか、饅頭と思って買ったのが馬糞だったとかいう話はどこにも語り伝えられているので、ここでは土産のおはぎが、墓地の葬式用の古い折箱に詰められた馬糞だった、という話を紹介します。
昔の百姓は、肥料効果がなくて作物の収穫が著しく減少したり、病害が発生しやすくなった畑を「くせが出た」といって恐れたが、その原因が土壌の中の微量成分の欠乏であるとは気がつかなかった。
しかし、海草を堆肥に混ぜて使うとこのくせが消えることを知っており、農閑期にはわざわざ南湖(茅ヶ崎市)の浜まで海草を買いに行ったものである。
海草と言っても食用にならないホンダワラで、これは他の海草と一緒に海岸へ打ち上げられるが、漁師たちにとっては邪魔なものだから天日で乾燥して燃やしたものである。従って、欲しいと言えば乾かしてまとめておいてくれたし、ほんの手間賃だけで売ってくれた。
一方、農家ではどこの家でも宅地内に棕櫚(しゅろ)の木を植えていたが、この繊維は丈夫で腐りにくいので、海辺の漁師たちにとっては網の修理や力綱には欠かせないものだった。
ある百姓が棕櫚の皮を車に積み、あと押しに子供を連れて南湖へ海草を買いに行ったときのことである。棕櫚皮の量が多かったので、漁師は海草の代金を受け取らないばかりか、しこという小鰯を三束(ぞく)も平籠に入れて土産にくれた。一束とは小さいものや細かいものを数える百を単位とした昔の数え方で、三束は鰯三百尾である。
漁師のすすめるままに積めるだけ積んだので荷が重い上に、田舎のでこぼこ道である。子供のあと押しぐらいでは大八車は思うように進まず、門沢橋にたどり着いたころは、日はとっぷりと暮れてしまった。馴れている道なのに、どこでどう間違えたのか気がついたときはいつもとは違った道に迷い込んでいた。
しかし、余光に浮かんでいる大山を左に見て北へ進めばやがて社家へ出るだろう、と汗を拭き拭き道を急ぐと、ちょうど道端の茶店で爺さんが団子を焼いていた。その団子につけた醤油の焦げた匂いが空腹の親子にはたまらなかったので、ひと休みしていくことにして団子を注文し、親子でふた皿ずつ平らげた。
あんまりうまいので、家族の土産にしようと思って頼むと、「今日はこれだけしか作っておかなかったので、もうおしまいです」という。
そのとき裏手のほうから、婆さんがおはぎを入れた四角な折り箱を持って出て来て、お金はいらないから車の鰯と交換しようと言った。どうして鰯が積んであるのを知っているのか考えてみれば疑問がわくはずだが、そんな深いことも考えず、無造作に車からひと籠降ろしておはぎと交換した。
我が家へ戻った親子は、残っているはずのふた籠の鰯が姿を消しているのにびっくりしたが、さらに、家族を喜ばせようと思って交換してきたおはぎが、新仏に供えたお葬式の折り箱に詰めた馬糞であったのには、空いた口がふさがらなかった。
その後、迷い込んだ辺りの道を何度か通ってみたが、そこはお寺の墓地裏で茶店などあるはずのない寂しい農道だった。
さて、滅法うまかったあのときの団子は何だったのだろうか。後でこの話を聞いた物知りの老人は、「うまかった団子は本物で、おそらく葬式のとき墓前に供えた枕団子(注)を狐が利用したものだろう」と言ったそうである。

(注)枕団子
田舎では人が死ぬと、通夜の晩に死者の枕元へご飯とともに茶椀に山盛りの団子を供え、葬式の当日この膳部を長男の嫁が持って墓地まで柩を送る風習があった。この団子はそのまま墓前に置いてくるが、故人が生前、幸福だったり長寿だったりすると、これにあやかりたいという意味で、会葬者がこの団子を分けて持ち帰ることもあった。

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