狐に化かされて鷹匠をなぐった話

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ページ番号1000754  更新日 平成30年2月28日 印刷 

子供の時から、地元に伝わる話や体験したことなど狐にまつわる話を収録し続けてきたら百話を超していたので、変わったものを選んでみた。
中には全くたわいもない話もあるし、また疑心暗鬼を生じて狐のしわざと思いこんだり、あるいは狐に罪をなすりつけて、自分の失敗をごまかそうとするのではないかと思われるようなものもあるが、古い話は別として、明治末期から大正、昭和初期にかけての話には生き証人もいるし、地元には「ははあ、あの話か」とか「あの人のことだろう」などと思い出したり、想像したりする人も多いことだろう。
狐が化かすというのは、化かされることを意識し過ぎるため自己催眠にかかってしまうのだという人もいるが、理屈めいたことはぬきにして、民話の面白さは、素朴な田園調の幻想の中にあるのだということを前提として読んで頂きたい。
大谷の名主鈴木三左衛門様(義民鈴木三太夫翁)親子を斬った領主町野壱岐守幸宣とその子幸長は大谷村のほかにたくさんの村々を所領としていた大身旗本だが、元禄十四年(1701年)罪を問われ、没収された領地は全部御料地となった。
その折、寺尾(綾瀬市)、柏ケ谷、上今泉、栗原(座間市)の四カ村はひとまとまりの土地でもあり、山林原野が多かったので、一時将軍の鷹狩りの場所に指定され、お留場(木を伐ったり猟をしたりするのを禁ずる場所)となったが、その後私領となってもその慣例が何年か続いた。そのため農民はいろいろな重い課役に苦しんだが、特に鷹匠の横暴には泣かされた。「税務署と聞くとしゃっくりが止まる」という冗談があるが、その頃は「鷹匠と聞くといざりがかけ出す」と言われていた。
さらに苦しみを倍加させたのは禁猟による鳥獣の被害で、厳しい禁令のため、とることができないので野生動物がのさばり、特に狐は屋内にまではいりこみ、人間の食べ物をさらって行くことも珍しくなかった。
上今泉の天台、神後谷、中原、萩原谷、そして栗原の中っ原、芹沢などは江戸時代ほとんど山林だったので狐もたくさんいたが、中に劫(こう)を経た、たちの悪い狐がいて農民を悩ませたということである。
威張り散らす鷹匠と狐は、百姓たちの憎悪の的であったが、鷹匠には歯が立たないので、いきおいその分まで狐が憎まれる結果となり、穴をふさいだり煙でいぶしたりしていじめることも多かった。
ある時、萩原谷の某家の下男が、稲むらのそばで藁をくわえて自分の体をこすっている狐を見掛け「こいつ俺を化かす気だな」と思ったが、素知らぬ顔で仕事をしていたら、物かげに隠れた狐と入れちがいに、手の甲に鷹をのせた鷹匠が出てきた。
「この野郎えらく貫ろくのある化け方をしたな。だが狐が化けた鷹匠なんぞにおどかされてたまるものか。なめるな」と力一ぱい天秤棒でなぐりつけたら、それが本物の鷹匠だったから大変なことになってしまった。いくら謝っても許してもらえず、とうとう村中大騒ぎとなった。当時の連座制こより共同責任ということで、ばく大な金子を包んでやっと収まったということである。
これは完全に狐に裏をかかれたわけで、ふだん目の仇にされていたのでそのしっぺ返しだったと語り伝えられている。そのあと火山灰(1707年に富士山が噴火)を狐のしわざと思った百姓の話が出てくるから多分宝永(1704年~1711年)の頃の話だろう。

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