おはぐろをつけた狐

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ページ番号1000776  更新日 平成30年2月28日 印刷 

国分の宿をはるかに離れた谷戸の奥の一軒家に、村人たちが「取り上げ婆さん」と呼ぶ独り暮らしの婆さんが住んでいた。
お産が近づくとみんなこの婆さんを頼みに行くのだが、どんな天候でも夜中でも必ず来てくれるし、手際よくお産を助けて赤子に産湯を使わせ、きちんと始末してくれるので、地元の人たちにとっては重宝なそして大事な存在だった。
頭に白髪の髷をのせて歯を黒々と染め、いつも身なりはきちんとしていた。もしも白髪でなければ、お婆さんと呼ぶのは気がひけるような顔の色つや、そしてしゃんとした身のこなしだった。
「あのお婆さんは、俺たちの子供のときからちっとも変わらない」という老人がいたくらいだから年齢もはっきりしないし、何時のころからいるのか、どこから来たのか知っている者はいなかったが、誰も別段不思議に思わず、怪しみもしなかった。ただ、変わっているのは赤子を取り上げたあと、胞衣(えな)を必ず持ち帰ることだった。
海老名の土地では昔から赤子の胞衣は、生まれ年、生まれ月、方位などを考えて、屋内の土間の隅か家屋の近くに穴を掘って深く埋める風習があったが、これは動物などに掘り起こされないためだ、ということである。
この取り上げ婆さんは胞衣を谷戸奥の地蔵様の周りに埋めて、子供の無事な成長を祈願してくれるというので、手間も省けるし御利益も頂けるということから、みんなそっくりこの婆さんに渡していた。
そのころ、付近に野犬の群れが出没し、家畜がやられたり農作物を荒らされたりして被害が大きかったが、集団で夜間行動するため適当な対策がなくてみんな手を焼いていた。
折よく「石見銀山」(注)の行商が来たので、この家でもそれを買って魚の臓物に詰めて野犬退治に使うつもりでいた。
石見銀山というのは今でいう″猫いらず″のことで、当時ネズミのひっくり返った絵の旗を背負って「いわーみぎんざーん、ねこーいらーず、ひとなめーなめーれば、ころーりころり」と、独特の売り声で村々をまわって、この毒薬を売り歩く行商人がいたのである。
石見銀山を魚のあらに詰めて用意したこの家の主人も、夕方から女房が産気づいたので野犬退治どころではなく、あらを入れた小桶をくぐり戸の外へ置いたまま、取り上げ婆さんが帰るまですっかり忘れていた。
婆さんは、帰るときこの小桶のあらに目を止めてしばらくじっと見ていたが、その目は異様に光っていた。
翌日、気がついたらその小桶が姿を消していたので、犬なら桶を残して置くだろうに、誰が持って行ったのか、と毒薬を入れたあらが気になったが、手の打ちようがなかった。別に気になったのは、いつもなら必ず赤子に湯を使わせにくる婆さんが、その後姿を見せないことだった。
お七夜の祝いに赤飯を炊いて谷戸の奥まで持って行ったが、婆さんの姿は見えず、見おぼえのある小桶がある。念のため手に取ってみると、やはり底裏には家の屋号の焼き印が押してある。前後の事情が納得できず、主人はそのまま帰ってきたが、婆さんはそれっきり村人の前に姿をあらわさなかった。
半年ほどたって、大風で倒れた木の始末を頼まれた先山(きこり)が谷戸の奥に入ったら、榎の大木の根本に着物の切れはしが見えたので、調べてみたら着物に包まれた大きな狐の死骸が空洞の中にあった。
半ミイラの状態で、苦悶のさまをありありとむき出した歯は、おはぐろでまっ黒に染めてあった。天保のころというから百五十年ほど昔の話である。

(注)石見銀山
島根県西部の邇摩郡にある銀山で、慶長から寛永(1596年~1644年)にかけて発掘が盛んであったが、砒素を含む副産物の鉱石は毒性が強かった。この鉱石を原料としたねずみ殺しの毒薬を売り歩く行商人がいたが、これらを総称して石見銀山と言った。

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