お待ちゃれ坂の狐退治
ページ番号1000785 更新日 平成30年2月28日 印刷
大谷宿から上の台地に抜ける坂道は、早川(綾瀬市)から相模川の渡しに通じる一番古い街道にあるため、土地では昔から古坂と呼んでいる。
竹次郎が弓張提灯で足元を照らしながらこの坂を二、三十歩上ると、清眼寺裏の暗がりから「お待ちゃれ、お待ちゃれ」と呼ぶ女の声がする。
「お待ちゃれ」は「お待ちなさい」の丁寧言葉「お待ちあれ」がちぢまったもので、もともと土地の言葉ではなく、江戸へ働きに出た女たちが帰村して上品ぶって使った武家言葉が定着したものだが、暗くなってこの坂道を通ると必ず女の声で「お待ちゃれ」と呼びとめられるというので、お待ちゃれ坂、と言って怖がられ、夜間、この坂道を通る者は全くなかった。
竹次郎は宿に何軒かある飲み屋の、客にあぶれた飯盛女が客引きをしているのだろうと思って、気にもせず坂の中程まで行くと、お待ちゃれ、お待ちゃれとついてきた女が突然腰帯をつかんだ。
それは恐しい力で、腰を落としてこらえたが重い石でも吊るされているようだった。振り返るとこけしのようなかわいい女の子が立っている。
「おのれ妖怪」と、その手を振り払うと童女の姿は消え、見上げるような大坊主が満面朱をそそいだ怒りの形相でつかみかかってきたので、身をかわして入れちがい、連拍子という荒技で後ろへ投げ倒した。これは小兵非力の者が巨漢を倒す妙技だが、浸食された赤土の薬研底に足を取られて体の安定を失い、不覚にも横倒しになってしまった。
そのとき大きな生き物の上に折重なった感じだったが、提灯は消えて真の闇である。坂道を逆戻りして帰宅したがこのことは家人にはひと言も言わず、翌日、昨夜の用件を果たすため再びこの坂を通ったら、大きな雌狐が押しつぶれたように死んでいた。
狐の背骨は中央でぽっきり折れて露出し、首もねじれていたが、それは竹次郎が倒れる瞬間無意識にさばいた右拳と左手刀の威力によるものだった。
この竹次郎は、もとはれっきとした旗本の次男で、天神真揚流柔術の免許をうけ、剣はさる道場の四天王と言われるほどの使い手だった。
しかし、泰平の時代で仕官の道もなく、また婿養子に迎えてくれるような家もないままに三十歳を過ぎてしまったので、一生部屋住みで終わるより思いきって武士を捨て、市井に出て商人にでもなろうと考えていたところ、たまたま江戸へ出て小藩のお抱え医を務めていた名主の弟と知り合い、碁の相手をしているとき、ふと心中を漏らした。
そこで、相模川の清流に望む海老名の地で、兄のもとに寄食してのんびり暮らしたらどうか、と勧めると二つ返事で話が進み、自分から身分も姓も捨て、もとの名の「武次郎」の武を竹に替えて、下男として住み込んだのである。
表向きは使用人ということであったが、名主は文武両道に秀でたその人柄を高く評価し、別棟の隠居所に住まわせ厚く待遇したので、家人も村人も尊敬して「竹次郎どの」と特別の敬称で接した。
竹次郎もその恩義に感じ、いつも木刀を腰にさして影の形に添うように名主を護衛していた。
延享二年(1745年)、身延参詣の帰途、甲州上野原の山中で野盗の群れに襲われたときは、木刀を振って目にも止まらぬ早業でこれを叩き伏せてしまったが、呼吸も乱さず、「抜くと後が面倒ですから」と笑っていたということである。
名主の供をして旅に出るとき腰にさす木刀は、実は無反りの直刀を仕込んだものだったが、これを知っていたのは名主だけだった。
この竹次郎は細面で女のような顔立ちだったが拳は土瓶のように大きく、なたの背で叩いても割れないような古竹を、手刀で割りながら風呂を焚いて女中を驚かせたということである。
「お待ちゃれ坂」と呼ばれた古坂は、現在、浸蝕防止と滑り止めのため中央だけ簡易舗装してあるが、開発が進み住宅が増えているのにこんな所があるのかと思われる淋しい山道で、短い区間ではあるが、夜間はもちろん日暮れなど女子供では一人で通るのが怖いような所である。
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