国分の雨ごい

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ページ番号1000731  更新日 平成30年2月28日 印刷 

この雨ごいの起源はわからないが、昭和の初めごろまで続いた伝統的な格式ある修法(祈る方法)であった。
それは、真夏の大かんばつの際、各村々が雨降山(大山のこと)へ雨ごいに行ったり、鎮守(土地の守り神)での祈願祭を行ったりしても何ら効果のあらわれないぎりぎりの年でなければ容易に実施されない行事であった。
雨ごいが行われる時は、まず小さなミコシが二基作られ、つば広の経木帽(経木で編んだ帽子)に蛇と龍の絵が国分寺の僧によって描かれる。
当日になると薬師如来の守護神である十二神将の中の辰の神、巳の神をそのミコシに納め村中から選び抜かれた屈強な若者が白丁(ミコシをかついだりする時の白い服装)姿に例の経木帽をかぶり、それをかつぐ。
そこで僧が読経しつつ一升マスを持って輿の四すみに水を注ぐ。それが済むと、僧を先頭に、ミコシ、村役、一般村民の順で列を組み、旗をひるがえし、鐘太鼓を打ち鳴らしながら五彩の龍文を描いたカサをかざして逆川の上流である滝つぼを目指して進むのである。
その際、異口同音に「雨たんもれ十分に、西に黒雲舞い立った」とくりかえし唱えるのであった。沿道の家々では、各戸ごとに水を満々とたたえた四斗ダルをすえ置いて、行列がさしかかると一せいに一升マスで二神将めがけて水をかける。
国分の辻を過ぎると今度は逆川用水路の中で、かねてから待ち構えていた人々が前よりも激しく水の放列を敷く、このため、僧のあごはがくがく震え、経文のあやもわからず、その衣は破れんばかり。若者はまた紫色に変わったくちびるをへし曲げ息すらつげない苦難の目にあうのであった。
ようやくお滝へ着くと輿を滝つぼにすえ、僧の読経のうちに二神将を水攻めにしてこの壮烈な雨ごいは終わるのであった。
その霊験は顕著で、いかなる年でも、たとえ三粒でも雨が降らないことはなかったということである。

参考 海老名むかしばなし第1集「二神将の腕」

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