太鼓塚

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ページ番号1000811  更新日 平成30年2月28日 印刷 

通称大谷峯という村の背骨にあたる台地に、「太鼓塚」という塚がある。高い丘の上の更に土を盛ったもので、以前は裾盥(すそだらい・注)を伏せたような丸い塚だったが、長い年月の間に周りから削り崩されてだんだん小さくなってしまったということである。
私有地なので、戦時中は食糧増産のためにさらに崩されて、周りはなだらかな斜面になって塚の面影はなくなってしまったが、それでも上に立てば海老名耕地を眼下に見下ろすことができるし、大山、箱根の関東山脈に続いて、南は遠く伊豆の山々まで一望のうちに眺められ、晴れた日には三原山の噴煙を望むことができる。
この塚は海老名郷土かるたにもあって、「世に伝う市神跡と太鼓塚」と市道の傍らに標識も立っているが、周りがすべて私有地で住宅も建っているし、道もないので近づくことはできない。
遠い昔、海老名耕地は相模湾に続く入り海で、静かな波の彼方に連なる山脈は四季それぞれの趣があるばかりでなく、その日その日の天候や雲によっても色彩が変わり、月の夜、雪の朝、いつ見ても見飽きることのない美しい眺めだった。
やがて風光明媚な海老名の大地に時の帝聖武天皇が相模の国分寺を建立されることになり、資材を積んだ船が次々に接岸した。船をつなぐ大きな杭が何本も打ち込まれて、台地の下は船つき場として賑わった。
高台には入り船を見張るための高い櫓が組み立てられ、土を盛って作った大きな塚の上には鼓楼が建てられて船が近づくと太鼓を打ってこれを知らせた。太鼓の音を聞くと里人たちはそれぞれに支度をして、浜辺に集まり荷上げに協力した。
完成した国分寺の堂塔は光り輝いてその美しい姿を入り海に写したが、その金色の輝きにおびえた魚類が、みんな外海へと逃げてしまったので不漁の日々が続き、漁師たちの生活が成り立たなくなってしまった。一人の蜑(あま=漁師の妻)が女心の浅はかさから、この国分寺さえなかったらもとの平和な暮らしができるものと思いつめて風の激しい晩、国分寺に放火した。
七重の塔を始め、建ち並ぶ堂塔は一夜にして灰塵に帰し、蜑は捕えられて台地の街道の傍らに首だけ出して埋められ、鋸挽きの刑に処せられた。その蜑の悲しみが地にしみて、台地の一角から涙の如く点々と滴り落ちる水はどんな日照りでも涸れることがないので、里人はいつかこれを「蜑の泣き水」と呼ぶようになった。
船をつなぐために打ち込んだ欅の逆さ杭が一本根付いて長い年月の間に見上げるばかりの巨木になった。それが天然記念物の大欅である。
こうしたかつての仏都にふさわしい数々の伝説は、幾多の戦乱政変の中にも語り継がれてロマンのふるさとを美しく飾ってきたが、これは海老名の誇りでもあり尊い遺産でもあった。
しかし、郷土史の研究者の中にはこうした伝説を根も葉もない作り話と決めつけ、数多くの昔話を「年寄り・子供のたわ言」と退けた。
太鼓塚の言い伝えについても、台地の下に開かれた市の開閉を知らせるために太鼓を打った場所であるとしたため、「市場」という小字の一角に「市神跡」という碑が建てられた。
当時、大谷の古老たちを始め、多くの人々がこの説に強力に反論し、否定したが、すでに建てられた碑を撤廃することはもちろんできなかった。いったん活字となって発表された学説は簡単に覆すことのできるものではなく、すでに建てられてしまった碑を書き改めたり、撤去することなどは不可能なことであった。
こうして香り豊かな伝説や、虹のように美しい数々の物語は次々と消滅し、かつてのロマンのふるさとは、国分寺の礎石だけが「目玉」という農村になって戦後を迎えた。
大欅も樹齢の推定から年代的に符合しないかも知れないし、逆さ杭が根付くということはあり得ないかも知れない。しかし、国民が信じて疑わなかった日本の歴史ですら数々の疑問があるという昨今である。太鼓塚の鼓楼についても市場説によるべきか、見張り説をとるべきかは研究の余地があるように思われる。
ともあれ、史実の如何は別として、人口に膾炙して語り伝えられてきた太鼓塚や大欅の伝説は、蜑の泣き水の話とともにぜひとも語り継いでもらいたいものである。

(注)裾盥
馬の体を洗うための腰高の大きい盥。

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