お松の碑

 土木工事の成功を図り、人間を犠牲として生き埋めにするという伝説は、全国各地にあるというが、「水害から村を救ったお松の碑」と郷土かるたにうたわれているとおり、市内上今泉にもそうした人柱伝説が残っているのである。
 相模川は戦後、上流に多目的ダムである相模湖や津久井湖などの人造湖が造られて、流量の調整が図られているが、かつては梅雨荒れのある入梅期、または暴風雨をもたらす台風の季節は、しばしば大洪水を起こしたものである。
 そのため堤防が決壊し、海老名耕地を一大湖水にしたり、家財道具はもちろん住宅まで流失、その上貴い人命を失う者まで出すという大被害をもたらしたのである。
 ことに上今泉の小字崖の根下一帯の耕地は、荒れ狂う濁流のため崖という名のとおり崖をけずり取られたり、秋の実りを楽しみに、せっかく丹精して育てた稲までも跡形もなく押し流してしまう、という惨状を呈したのである。
 伝えによると江戸初期の寛文二年(1662年)、時の領主久世大和守広之という大名は、この洪水の難を救うため耕地に一大堤防を設けようと一念発起、立ち上がったのである。
 広之は下総の国(千葉県)関宿の藩主で、「寛政重修諸家譜」という書によると慶安九年(1648年)九月八日、武蔵国小机領(横浜市港北区)などと共に海老名領のうちに於いて五千石を加えられ、一万石を領すとある。
 海老名領のうちとは河原口村と上郷村を指したのであって、上今泉村はこの中に含まれていない。この点、いささか心に掛かる。広之の死は寛文七年六月二十五日であるから、その五年前に堤防工事を起こしたことになる。
 役人たちは工事の成功を期するため、昔からの慣習である人柱を立てることにした。そしてそのいけにえになる者は、まだ男の肌を知らない純潔で若く美しい乙女であることを条件として探し求めたのである。不幸にも、これらの条件にかなうというので白羽の矢を立てられたのは村一番の見目うるわしいお松という娘であった。
 お松の家では、その父母をはじめ家族一同思いもよらぬ難題に打ちひしがれ、どうしたものかとおろおろするばかりであった。お松はお松でなまじ美貌に生まれたために、突然闇の世界に突き落とされるにも似た悲しい運命を思い、身もだえては嘆き悲しむのであった。
 何刻か畳に泣き伏していたことだろう。やがて時が流れるにつれ、すっかり観念したお松は、「村のため人のため、お役に立つならば・・・」と決心したのであった。
 そして大勢の村人たちが合掌し見送るなかを、白木の棺に入れられたまま堤防沿いの土中深く埋められていった。家族やゆかりのある人たちは、せめてもにと涙ながらに長い青竹の節をくり抜いた竿を棺の上に立て、空気を通わせてあげたのであった。
 その後、工事は順調に進んで堤防はりっぱに出来上がった。村人たちは、これもけな気なお松のお陰と、その冥福を祈るためそこに供養碑を建て、傍らにエノキを植え塚の目印としておいた。
 そのエノキが年ごとに大きくなるにつれその場所を「えのきど」と呼ぶようになり、「榎戸」の字を当てた。えのきどの「ど」は「処」という意味であり同音から「戸」の文字を当てたのであろう。
 この地名は範囲を広げて辺り一帯の水田の地名にまでなり、現在土地台帳にも歴然と記載されている。
 なお、供養碑は元鳩川用水路沿いの葦の中にひっそりとたたずんでいたが、その後その五十メートル東方の水門のある所に丁重に移された。
 しかしどうしたことか、ある人が平成元年九月に探訪したときは、すでにその姿はなかった。碑は蓮台を含めて六十一センチ、長い年月にさらされて地蔵菩薩の像容も定かでなく、わずかにその右側に「為念仏供養菩提也」と辛うじて読める程度であった。この碑の消失はまことに残念なことである。

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