蚯蚓を食った横座たち

 鎌倉時代、北条時頼が執権となった寛元(1243~47年)のころの話である。天変地変が相次いで連年の凶作、その上悪疫が流行した。
 猛威を振るったのが赤疱瘡で老若男女ひと度これにかかると激しい発熱の後全身が赤く爛れ、生きながら皮や肉から腐って、ばたばたと死んでいった。時の執権北条時頼もこの赤疱瘡にかかったが、危うく一命をとりとめたので出家したとも伝えられている。
 路傍には、いたるところに行き倒れの死骸が放置され、野犬が群がって腐肉をむさぼり食らい、その後には蠅が黒くなるほど集まり、異様な臭気が渦巻いてまさに地獄絵そのものであった。
 ここ相模の中央、渋谷の庄大谷郷の鍛冶屋邨(注1)にもこの悪疫が流行し、軒並みに親子兄弟枕を並べて喘いでいた。
 この鍛冶屋の聚落は複雑な地形に囲まれた谷戸の奥で、鎚の音がしなければ人が住んでいるのもわからないような所にあり、ふだんは周りの村々とは隔絶していた。
 当時、このような外部とあまり接触のない地域に伝染病が侵入すると、無菌状態の中で抵抗力がないため大きな被害をもたらし、ときには一部落が死に絶えることすらあった。
 鍛冶屋部落の村長は、鎮守の稲荷大明神に悪疫退散の祈願をするため、健在な横座たち全員に社頭に集まるように指示した。横座というのは鞴(ふいご)の前に座ってこれを操作し、火加減を見たり焼き入れをしたり、親鎚で相鎚の位置を示したりする親方のことである。
 病魔調伏悪疫退散の祈祷が終わり、直会(なおうい=注2)となったが、その席に、ついぞ見掛けたことのない緋の袴をつけた美しい巫女が現れ甲斐甲斐しく酒肴などを運んでいたが、最後に変わった食事を運んできた。
 それは粉を練ってのばしたものらしく、箸のように細長く紐を切ったような感じのものだった。直会には強飯が出るはずなのにと、みんな不思議に思ったが、社の特別の式例だろうと合点して勧められるままに全員それを食べて退散した。
 一人の横座がこの変わった食べ物を家族に見せようと包んで持ち帰り、懐から出してみたら蚯蚓(みみず)がうようよしていた。驚いて横座仲間の家を何件か聞いて回ったが、みんな変わった味とは思ったが蚯蚓とは関係ないということだった。
 たまたま横座の一人が、箸からすべって懐に入った一本が見つからなかったので、帰宅して衣服を調べたら蚯蚓が一匹でてきたと証言した。この話はすぐに部落のすみずみまで知れ渡ったが、食べた時点で気がついた横座は一人もいなかった。
 人々は緋の袴を着けた巫女は狐だったに違いないと思ったが、悪疫退散と蚯蚓の関係が納得できず、あるいは直会の御馳走を狙った狐の仕業かもしれない、と気味悪がった。
 しかし、祈願式に参列して蚯蚓を食った横座たちは、その後一人も発病しなかったので、神意によって授けられた疫病の霊薬であると解釈し、それからは激しい発熱にはみんなこれを煎じて飲んだ。
 江戸時代以後、狐に化かされて蚯蚓をそばと思って食った話が各所に伝えられているが、この話が原話になっているのではないかと言ったら独断だといわれるだろうか。
 よその土地のことはわからないが、この土地では最近まで蚯蚓を解熱の特効薬として使っていた家があり、土用のころ太い蚯蚓を庭石や敷石の上で丸干しにしてあるのを度々見掛けた。 

付記・鎌倉時代の食生活
 米は日本民族の、主食だといっても、このころは貴族や上級武士など特殊な階級の人たちだけのもので、農民や一般庶民の常食ではなかった。また、すべて玄米食で、これを蒸したものを強飯と呼び、白米は姫飯といって貴人や上流社会の限られた人たちしか食べなかった。農民や一般人は稗、粟、黍などの雑穀や豆類、ドングリなどの木の実を主食としていた。粉食も行われ、団子にしたり伸して煎餅のように焼いたりした。また、こねたものを千切って野菜などとともに煮込んだりした。
 奈良時代の宮廷行事の中で七夕の節句に、小麦と米の粉をこねて紐状に伸ばしたものを食べたという記録があり、これを索餅(さくべい)と呼んだというが、七夕の織糸になぞられたものだろう。恐らくこれが麺類の始まりだろうが、それを鎌倉時代に何と呼んだかははっきりしていない。 

(注1)邨・・・農林漁業などの人家の集まりを普通「村」と呼ぶが、同族や同じ職業の人たちが氏神を中心に構成した部落を「邨」という。鎮守の幟(のぼり)などにはこの文字が用いられることもあり、下大谷の八幡宮の幟には「大谷邨」と書いてある。
(注2)直会・・神事の儀式の後、供えたものを参列者が分け合って飲食すること。

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