お稲荷様の話

 昔むかしのそのまた昔のずうっと昔の話である。
 天竺(インド)で神様たちが集まり、東の方の日本という国には米がなくて、みんな粟や稗や木の実を食べて生活しているという話をしていた。
 そばで聞いていた茶枳尼天(だきにてん=注)という女の神様が、その日本という国に稲の種子を届けて米の作り方を教えてやろうと思い立ち、日常そばに仕えている狐にこのことを言い含めて稲を荷なって(肩に担いで)その背に乗り、西遊記の孫悟空のように雲を呼んで一気に日本へ飛んで来られた。
 そして国津神(日本の神様)や農民に籾の種子を渡してその作り方を教えたが、一方、天竺では茶枳尼天が稲を国外へ持ち出したというので大騒ぎになり、心の狭い神たちがそれを取り戻そうと後を追ってきた。
 茶枳尼天は国津神に、「自分は地中に隠れてしまうから、『いない、いない』で押し通すように」と頼み、農民たちにはいくら問い詰められても種子は「ない、ない」とだけ答え、よけいなことは一切言わないように、と固く口止めして隠れてしまった。
 追ってきた天竺の神たちが「稲を荷なってきた女の神がいるはずだ」と聞いてまわったが、みんな「いない、いない」とだけしか答えず、百姓たちに稲の種子をどこへ隠したか探し出せと迫ったが、みんな「無え、ねえ」の一点張りだったので、とうとうあきらめて帰ってしまった。
 みんな胸をなでおろしたが、さて今度は種子を埋めておいた場所がわからなくなってしまった。みんなで「無えな、無えな」と探し回っているうちに春になり、「無え、無え」といっていた種子が芽を出して青々と伸び始めたので、それからこれを「苗」と呼ぶようになり、茶枳尼天は「いない、いない」と言い続けたので「いない様」と呼んで農地の神として祭ったが、それがいつか「いなり様」になった。
 稲を荷なうと書いて「稲荷」と読むのはこれに由来し、乗ってきた狐は大事な眷族(けんぞく)として扱い、感謝の気持ちを表してともに祭ったので、以来稲荷明神と狐は密接不離の関係で現在に至った。
 以上が、稲を担いで狐に乗った茶枳尼天の掛軸とともに、我が家に代々語り継がれている話である。
 稲荷信仰には二つの系統があり、古来から農耕神として祭られているものの祭祀は神官の祝詞によって行われ、仏教神として祭られているものの祭祀は僧侶の読経によって行われる。豊川稲荷は仏教神で、参詣された方はご承知のことと思うが、神社ではなく円福山妙厳寺という寺院である。
 時代が移り、稲荷信仰が盛んになるにつれて、本来農業の神であったものが水産業や商工業の神としても祭られるようになり、やがて花柳界にまで及んだ。
 稲荷信仰は農家のない江戸の町々にも普及し、どこの路地の奥にも赤い鳥居が見え、稲荷神社が多かったことから、伊勢出身の商人の多かったこととともに「江戸に多いのは伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと言われた。昨今ならさしあたり、「東京に多いのはビル、吸い殻に食い物屋」ということになるだろう。
 現在、神社庁に登録してある全国の神社八万のうち、稲荷神社が約三万と言われているからいかに多いかがわかる。
 元禄のころまで大谷の田んぼの真ん中に大きな森があり、その森の中に上大谷、中大谷、下大谷の総鎮守として立派な稲荷神社があったが、富士山の噴火による降灰や度々の風害水害落雷などによって森は次第に枯れ、農村の疲弊とともに荒廃してしまったが、一揆を企てたということで名主が処刑されてからは祭りも絶え、農家がそれぞれの宅地内に小さな祠を立てて、戸毎に屋敷守りの稲荷を祭るようになってからは田んぼの中の社は形ばかりになり、ついに安政六年(1859年)の大水で流出してしまった。
 この辺りは現在「稲荷森」という地名になっており、社のあったという場所は小さな塚のようになって水田の真ん中にある。
 大谷では古くからの農家には大抵屋敷守りの稲荷明神が祭ってあるが、二月の初午の日には赤飯を藁苞(わらづと)に盛り、眷族の狐のために小魚などの生臭ものや油あげを添えて供える風習がある。しかし、よその地区のように大勢集まる稲荷講というものはない。 

(注)茶枳尼天・・・人の死を六カ月前に察知してその心臓を取って食う悪神であったが、釈尊の教えにより一念発起してあまねく人を救う神となった。天は天空や大空という音味ではなく持国天、増長天、広目天、多聞天のように仏教にかかわりのある神をあらわす。

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