望地の地名

 明治から大正へかけて、望地(もうち)に水車業を営む岡本柳助さんという大変物知りの老人がおられた。
 毎年夏になると、団扇片手に夕涼みに出かけられ、目久尻川の橋のらんかんに腰を掛けては、付近の若者たちを相手にいろいろ世間話をされるのだった。
 次の地名にまつわる話もそうした中の一つである。
 「むかしの望地は戸数がわずか十戸足らずで、村にはまだ名前が付いていなかったそうだ。そんなころこの土地へ寺を建てようとされた開山さんがあった。『さて寺の場所をどこにしたものかな』とその開山さんは迷ってしまわれた。
 ある日のこと国分寺のお坊さんと連れ立って国分のうえんでえ(上の台)に上られた。そこに立てば望地が手に取るように見下ろされるからだった。
 お二人はじいっと土地のようすを見つめておられたが、やがて開山さんは一地点を指さして『あそこにしたいものだがどうでしょう』と申された。そこは大山街道が南坂を下り切って目久尻川に突き当たり、北方へ曲がる一角だった。
 国分寺のお坊さんもうなずかれながら、『あなたのお寺であるから、あなたのよいと思われた所でよいでしょう。私も賛成です』と申され、なお続いて『ところで村の名前のことだが、あなたが選び望んだ土地だからこれからあの村を望地と呼んだらどうだろう』と言われた。
 これが望地の名のはじまりだ。そして寺の名は東福寺とつけられたが、明治元年(1868年)の廃仏毀釈によって廃寺となってしまった。
 それから望地は土地の狭い村だったので小字はやっぱり二つだけしかなかった。それをもとは上と下と呼んでいた。その境目はみんなも知っているかも知れないが、ちよっとわかりにくい古道だ。国分の方からいうと大山街道の目久尻川にかかる石橋を渡るとすぐ南北の道にぶっつかるだろう。そこに高札場があって、大山道は南右手に行くが、上・下と境界になる古道というのは反対にそれから北に行き、田んぼの中道を東へ折れ曲がり、井上さんの裏と鈴木さんとこの間の道を登っていく。途中からあまり急坂になるから大体辰巳(たつみ=東南)の方にやや斜めに台へ登りつめ大山街道に出たんだ。これが望地を二分する古道なんだ。その後小字の上・下は今のように道上・道下と呼ぶようになった。台から国分の谷戸へ一直線の新道ができたのは明治三十三年のことで随分便利になったもんだ。開通式のお祝いの花火が上の台から何発も打ち上げられたよ」と。
 前段の望地の地名の由来はともかく、道上・道下の小字の地名の起源の話は十分説得力があり、真実であろう。天保年間(1830~44年)上・下と記録してある地名がいつ、だれが、どこで呼称の変更をしたものであろうかぜひ知りたいものである。

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