夜なべ

 江戸幕府は慶安二年(1649年)に、百姓の心得を示した世に言う”慶安の御触書”なるものを公布した。その三十二カ条の中に「朝起きを致し、朝草を刈り、昼は田畑耕作にかかり、晩には縄をない俵を編み、何にてもそれぞれの仕事油断なく仕るべき事」とある。収穫高の五十パーセントも年貢に取り立てるための基調をなす政策であるが、農民は生きるために夜なべまでしなければならない宿命を負わされていた。
 近代になっても小学唱歌に「ともしび近く衣縫う母は・・・いろりのはたで縄なう父は・・・」とある。今ではとても考えも及ばないが、私の少年時代はまさに江戸時代の延長そのものであった。薄暗いランプの下で、母はよく衣類の繕いや足袋の継ぎはぎをしていた。父は何にでも使う雑縄とか、むしろや俵編み用の細縄、稲を束ねるすげえなど歌の文句どおり夜なべ仕事に励んでいた。
 しかし、夜なべにも季節的な変化があった。春の養蚕時は昼のうちに伐り込んでおいた桑束を、穴倉から運び出しては、物置で桑もぎといって梢から葉をもぎ落とす作業をした。蚕の盛食期ともなると、夜の十一時過ぎまで女性の臨時傭いともども一家総出で精を出した。美貌の傭女目当てに若い衆が二、三人寄ってきて、冗談を交わしながら手伝ってくれたので意外と早く終わり、楽をすることもあった。
 実りの秋には唐臼ひき(籾すり)をした。物置の天井からつるした竹に二、三人つかまり、手動で臼を回転し籾をする。それを唐箕にかけ玄米と籾がらに分ける。玄米は万石にかけて選別する。粒揃いの玄米はもう一度唐箕立てして四斗ずつ俵に詰める。こうしてひと晩に五、六俵造り上げた。
 昼の作業疲れに加えての重労働だった。他の作業時にはときに甘藷の鍋焼きを作って食べたが、唐臼ひきの夜は大てい夜食は小豆がゆでカロリーの補給をした。
 芋の茎(ずいき)や干柿にする柿の皮むき、さつま団子用の甘藷の切干し切り、これらはみな女性の夜なべ仕事だった。特に大根の切干し切りは包丁の音をトントンと立て、あざかな手さばきで小気味よいものだった。
 母が隣の家に手助けに行くと翌晩は隣のおばあさんが来てくださる。夜なべにも相互扶助の精神が宿っていた。
 一日に一反織り上げるという機織の達者な母は、糸車をぶんぶん回して翌日分のくだ巻もした。それから一時、内職のラミーつなぎが流行したことがあった。一メートルほどのマニラ麻の繊維を一本一本つなぐ根気のいる作業だった。母が指先をちょっと動かすと二、三秒で結ばれた。それを手まり大に巻き、まとめておいてなにがしかの手間賃をかせいだのだ。
 高齢化社会の中でも、夜なべの経験、あるいは見聞した人は今はもう限られた少数の人たちであろう。隔世の感ひとしおである。

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