相模川の河童石

 貫抜川の合流する辺りの相模川の中央に、安政の頃(1854~59年)まで石の丸い柱が突き出していた。
 ここは相模川三大難所の一つで、増水の度に本流が東へ寄ったり西に移ったりして、浅瀬だった所が棹が立たないほど深い流れに変わったり、青澄んだ淵になったりして同じ状態でいることが少なかった。
 川で生活する船頭、漁師、筏師たちも、ここに近づくと手に唾をつけ、唇をかんで棹を握り直したが、それでも水勢や流れの状況で筏が崩れることもあり、また、荷船が沈むこともあって水難事故が絶えなかった。
 複雑な水の動きや流れの変化によるものだったろうが、一度沈んだものはなかなか浮き上がってこなかったので、川師たちは水神様のお腹立ちとか、川の主が引き込むのだなどといって恐れていた。
 この付近は、川幅が広い上に目印になるものがなかったから、見当が外れて遭難することが多かったので、何かよい目印になるものがほしいといずれも常日ごろ思っていたが、川名主の了解と地元の協力がなければ、どうすることもできなかった。
 それが水位の下がった春先のある晩、一夜のうちに川の中央に石の円柱が建てられていた。篝火を焚いた舟が集まり、裸の人影が水に濡れて篝火に光るのが夜目にもはっきり見えたが、夜分のことではあるし場所が場所なので、近づく人はいなかった。
 これを社家の人たちは川向こうの岡田の船頭たちだと思い、岡田側では社家の人たちがやったことだと思っていたそうだが、しばしば流れの変わる川や、境界のはっきりしない堤防外の河原は村と村との争いの元となり、ときには激しい闘争となる場合もあるので、社家、岡田両村ともにこの石には無関係という態度で通した。そのため公の記録には載らなかったが、口碑としては詳細に伝えられていた。
 この石柱は、漠然と川の中央に建てられたものではなく、社家の三島神社の御神木と岡田の一本杉のちょうど中間になっていた。
 水面に高く突きだしていた石の柱は、この難所のよい目印となり、闇夜の灯台の如くその後長い間、水難防止に役立っていた。
 しかし、誰が建てたかは謎で、風も水も冷たい春浅い夜の水底に潜ってこんなことをするのは、多分河童だろうということで、この石を「河童石」と呼んだ。もう一つの謎は、この石に「奉納」という文字が彫ってあったことだった。
 相模川の歴史に詳しい人の話によると、川沿いの村々や川師たちの間にも縄張りや厳しい掟があって、たとえ水中の仕事でも勝手にはできなかったので、馬入の船頭たちが時期を見計らって夜間一気に作業し、証拠も残さず引き上げてしまったのだろう、ということだった。
 「奉納」の文字については、その昔、川沿いのどこかの神社に奉納するため運んできた鳥居の石を筏から落としてしまったか、舟とともに沈んでしまったものを馬入の船頭仲間が捜し出して建てたものだろう、と説明してくれた。
 小田原北条から江戸時代にかけて栄えた川口の須賀港には、「河童連」という船頭集団があって、上流の木材、薪炭、石材そのほか流域各地の農産物などの輸送に当たっていたが、水練巧者の集まりで、特殊な潜水技術を身につけていたというから、水難防止のために「河童連」が建てたのだろうという推測は、当を得ているように思われる。
 長い間、相模川を上下する人たちのよい目印として親しまれた「河童石」は、惜しいことに安政六年(1859年)七月の大水で姿を消してしまった。
 このときの洪水については寺院や旧家に記録が残っているが、「堤防は各所で押し切られ、川筋の村々はことごとく床上まで浸水し、流失家屋も多く、あまたの死者も出た」などとあるから、その水量と水勢のすさまじさは想像を絶するものだったのだろう。
 相模川は年々水量が少なくなり、戦後は特に水位が低下し、だぶ(注)と言われた場所も地下足袋をはいて仕事ができる畑になって、様相は一変してしまった。
 三島神社の御神木も天火で焼けて既になく、岡田の一本杉も枯れてしまったので、「河童石」があったという場所も、今は全く見当がつかなくなってしまった。
 終戦後、厚木基地拡張などのため相模川の砂利を激しく採取した時期があった。採取船が昼夜の別なく稼働していたが、そこで働いていた人の話によると、水中深く潜ったバケットコンベアーが、大きな石にでも行き当たったような感じで進まなくなり、バックして場所を替えたことが何度かあったということである。あるいは、安政の大水で姿を消したという「河童石」だったのかもしれない。 

(注)だぶ ・・・川の流れの淀んでいる場所

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