小児部の大作

 寛政の頃というから、二百年ほど前の話になる。
 樽井の北の外れ、現在は国分寺台団地になっている早川(綾瀬市)境の雑木山に、作兵衛という独り者が炭焼きを生業としていた。
 人並み外れた大男だったので「大作」でとおっていたが、若白髪で頭が真っ白だったから、子供たちは「大作爺さん」と呼んでいた。仁王様のように頑丈な体に似合わず、目の小さい柔和な顔で気立てが優しいので、子供たちに「大作爺さん、大作爺さん」と親しまれていたが、当人も子供好きで、独り暮らしの呑気な生活だから、宿へ出てくると時間も仕事も忘れて、日暮れまで子供たちの遊び相手をしていた。
 大きな背負梯子で、四貫目(約十五キログラム)の炭俵を一度に二十俵も背負って、のっし、のっしと歩く姿は、両輪を外した荷車が立って歩いているようだったので、谷戸口にその姿が見えると、子供たちは「大作爺さんだあ!」と叫びながら、その回りに群がり集まった。
 先が二股になっている太い力杖を突っかい棒にして、馬繋場の隅に背負梯子を立て掛けると、暗くなるまで子供たちと遊ぶのが常だったが、短かい半天を着ただけの丸出しの尻はいつも真っ黒なので、子供たちが、「大作爺さんどうしたの。今日もお尻が真っ黒だ」と手を叩いて歌うと大作も、「毎日お山で炭焼きさ、それでお尻が黒いのさ」と八つ手のように大きい手で、自分の尻を叩きながら歌うので、その天真爛漫な姿には道行く人も立ち止まり、唇をほころばせて見入った。
 秋になると、大作は山から出てくるとき、藤蔓で編んだ篭に、栗やアケビや山ブドウなどをいっぱい入れてきたので、子供たちはその「山の土産」が楽しみだった。間食にするものも乏しい時代だったので、ほんのりと甘いアケビは子供たちを喜ばせたが、酸っぱい山ブドウもみんな喜んで口に含んだ。
 馬の水桶を裏返しにして、その底にのせたシドミの実を、目隠ししてつかみとる遊びをよくやっていたが、シドミ特有の香りを頼りに、勘でその位置を探るこの遊びも、子供たちは喜んだ。竹筒に自分の背丈だけ離れた位置から、ドングリを投げ入れる遊びなども、手元が見えなくなるまで競争していた。
 また、冬枯れになると、ヤマミズキの枝をたくさん束ねて持ってきて、その小枝で鉤引き遊びをさせた。これは、梢が先の二股に分かれている部分を折り取って逆さに持ち、鉤の部分を互いに引っ掛けて引き合い、先に鉤の部分がおれた方が負け、というたわいのないものだったが、次々に小枝を取り替えて、勝負に興じた。こうした遊びは「大作遊び」といって、子供たちの間に代々伝承されていた。
 その頃、大谷宿には、清流谷戸川のほとりに富貴楽という田舎離れした旅籠宿があり、谷戸の奥には玉すだれのような美しい滝が水音を響かせ、絵のような水車なども回っていたので、来遊する風流人も多かった。この富貴楽に逗留していた江戸の絵師が、大作の素朴な風采と純朴な人柄に魅せられて、子供と遊ぶ様子を毎日のようにじっと見ていたが、夜になると部屋にこもって、子供たちと遊ぶその姿を一心に描いていた。
 しかし、描き上げると「だめだ」とため息をついて、いつも破り捨てるのだった。
 宿の主人が、「そんなに見事に描かれているのに、どこが気に入らないのですか」と尋ねたら、「形ではない。子供たちと無心に遊ぶ老人の心が、どうしても描き表せないのだ」と言っていた。
 ある日、とうとう絵筆を投げ捨て、「あの老人の姿は『ちいさこべのすがる』そのものだが、その心が表現できないのは画道未熟のためである。修業を積んで出直してくる」と言って旅支度を始めた。主人が、「描き損じでもよいから、ぜひ一枚残していってください」と頼んだが、「魂の入っていない絵は残したくない」と言って、みんな焼き捨てて、憑きものでもしたように「ちいさこべ、ちいさこべ」とつぶやきながら去って行った。
 宿の主人も周りの人たちも、それがどんな意味なのかわからなかったが、子供と無心に遊ぶ老人が「ちいさこべ」であると解釈し、絵師の残した言葉をそのままに、炭焼きの大作を「ちいさこべの大作」と呼ぶようになった。
 その後、これが土地言葉となって、「ちいさこべではあるまいし、いつまで子供と遊んでいるのだ」などと小言にも使われたが、長い間、その訳を知る者はなかった。
 慶応の頃、寺子屋の師匠から小児部縋(ちいさこべのすがる・注)の話を聞いて帰った子供から、そのいわれを聞き、初めてその意味を知った村人たちは、「学問はするもの、させるもの」とお互いに話し合いうなずき合い、子供たちにも学問の大切なことを常に言い聞かせた。 

(注)小児部縋・・遠い昔、帝が大臣に、「子を集めよ」とお言いつけになったので、早速布令を出して子供を募集した。天皇のお召しというのでみんな喜んで子供を差し出したので、大臣は大勢の子供をぞろぞろ連れて参内すると、帝は「子と言ったのは蚕のことで、お前の勘違いである」とお笑いになったが、「集まった子供は全部お前に預ける。子供は国の宝であるから大切に育てよ」とのお言葉を賜り、小児部縋の名前をお授けになった。大臣はたくさんの子供を全部自分の屋敷に引き取って、大切に養育した。これが日本における「幼稚園」の始まりだと言われている。

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