舟べりにすがる水死者の手

 河口の真水と塩水の境目は流れや波の動きが微妙で、経験を積んだ地元の漁師や船頭でも遭難することがある。これをそこで仕事をする人たちは「魔がさした」というが、水面下の水の動きは複雑で、その道の専門家でもわからないということである。
 河口付近で水難事故が多いのはそうした原因によるものだろうが、川師たちの中には今もって死霊が招くものと信じている人も多い。
 また、二つの川の合流点は水量や水勢によって川底がさまざまに変化し、深さも流速も一定していないので、急に棹が届かなくなったり、筏の列が乱れて途中で分断したりすることがある。難所と呼ばれているのは大抵こうした場合で、海老名でも鳩川の合流点と貫抜川の合流点が難所とされていた。
 しかし、鳩川の合流する有鹿神社の裏は、洪水の折などは身の毛もよだつような濁流が渦巻く場所だったので、主が棲んでいると言われて平生もあまり近づく者はなかったが、貫抜川の合流する辺りは一見平凡な流れにみえたためか、水泳中や投網を打っているうちに溺死する者が多く、しかも仲間が一緒にいながら助けることが出来ず、大抵遺体は上がらなかった。
 言うまでもなく、予期しない深さや流れの変化によるものだろうが、この地では、大きな水蛇が呑んでしまうという言い伝えが信じられていた。
 この辺りは昔、よく投身自殺があったそうだが、やはり遺体が見つからないことが多かったということである。遺体がなくてどうして投身自殺がわかるのか、と古老に尋ねたら、投身者は入水した場所に履物をきちんとそろえておくものだ、と言った。きちんとそろえて飛び込むというのはどんな心理なのだろうか、当人以外にはわからないことである。
 世の中が泰平だったためだろう。元禄以降、お宮やお寺へ釣り鐘を奉納したり、石仏を立てて無縁仏を弔ったりすることが盛んに行われたが、僧侶による施餓鬼なども頻繁に行われた。
 相模川に灯籠を流す川施餓鬼は例年の行事になっていたが、これは水死者の霊を慰めるため、七月十五日の送り盆の晩に近郷の寺の住職たちによって行われたもので、百八の灯籠に次々に灯を入れて水面に浮かべると、流れに乗った灯籠は、一定の間隔を置いてはるか川下まで延々と続き、その灯の列は、さながら迷える霊魂を浄土へ導くが如く闇の中に輝いた。
 最後の灯籠を流した後、僧侶たちは屋形船に乗り、読経しながら流れにまかせてその後に従ったが、選ばれた老練の舟頭が経帷子に身を包んで棹を握ったのは、三途の川の渡し守になぞらえたものだったのだろう。
 流れにまかせた舟が貫抜川の合流点近くになると、急に船足がゆるやかになり、やがてある場所までくると碇を下ろしたように水面に吸いつけられて動かなくなったが、それは、暗い水面からやせ細った白い手が何本も出てきて舟べりにしっかりと取りつくためだった。
 僧侶たちは、ほの暗い釣行灯にくっきりと浮かぶ亡者たちの手を、いちいち経巻でなでながら一心に読経を続けた。やがて、すがりついていた手が一本、二本と次々に舟べりから離れてすっかり姿を消すと、舟は息を吹き返したように動き出し、再び流れに乗って川を下っていった。
 明治になって寺の数も少なくなり、住職のいない寺が増えたりしたため、川施餓鬼の灯籠流しは行われなくなってしまったが、戦後になって砂利船のバケットコンベアーが深く掘った跡で水難事故が続出したため、何回か川施餓鬼が行われた。
 一時期、建築ブームと米軍厚木航空基地拡張のため、大量の砂利が採掘され、相模川の川底は著しく低くなってしまった。現在の相模川は戦前に比べると三メートル以上低くなっている、と地元の人たちは言う。小田急が戦後鉄橋を架け替えたのは、川底の低下で橋脚が露出して著しく危険になったからだ、とも言われた。
 ダムの建設によって上流で多量に取水されるため、相模川も様相が変わり、昔の合流点付近には運動公園ができて、水難事故の多かったという場所もはっきりしなくなってしまった。
 語り継ぐ人もだんだん少なくなり、人を呑んだという水蛇の話も、水死者の亡霊が舟べりに取りすがったという話も、やがては消え去っていくことだろう。

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