盆の楽しみ辻飯と神輿

 ご先祖の霊を祭るお盆には、現在も各地でいろいろな行事が行われているが、遠い昔に忘れ去られた行事も少なくない。ここでは、今は行われていない「辻飯」と「神輿」のことをご紹介する。
 昔の農家にはネズミが多く、そのネズミを餌にしていた蛇の数も多かった。体長1.5メートル、太さ20センチメートルぐらいの青大将がネズミを追って米俵の中を動き回っているのを再三見かけたこともあったし、ほかにも地ムグリ、シマヘビ、マムシなどが家の近所に棲息していた。
 今も昔も蛇は嫌われ者のようで、当時はよく、殺された蛇の死骸を縄でしばり、村道の人通りの少ない藪の生えている辻までずるずると引きずっては、そこに穴を掘って埋めていた。また、こうした辻には蛇のほかにも犬や猫、ネズミなどの死骸も埋めていた。これは、祖先の墓地が屋敷内にあったため祖先の霊地に獣の死骸を埋めることを嫌ってのこと、という説もある。
 ある年、伝染病や疫病が再三にわたって発生したので、辻に埋葬されてきた畜霊や方々のお地蔵様、道祖神を供養して村を護っていただこう、ということになり、祖先の霊を迎える盆の日に酒とご飯を辻々に供えたのが「辻飯」の始まりといわれ、慰安の少ない田舎の行事のひとつになったという説を聞いているが、その真意を知ることはできない。
 この辻飯は、昭和の初期まで年中行事として行われてきたが、私が実際に見聞きした辻飯は次のようなものだった。
 辻飯は女性の行事なので毎年、盆の十四日の午後に、七、八歳の女の子から二十歳までの未婚の娘さんたちが宿に集まるが、宿はその年の辻飯に参加する年長者の家の中から、なるべくお勝手が広い家を宿にする。
 娘達は、米二合、野菜少々、お金五銭(年によって金額は変わった)を持って宿に集まり、年長者が炊事や着物(浴衣)の着つけを行う。その着つけはまず、新しい手拭いを細長く折って結び目を一重にして頭を助六結びにし、色つきの襷をして浴衣の裾をはしょい、年少者は赤または桃色、年長者は白の無地に江戸棲の柄を赤で染めた腰巻きをする。
 辻々に出向く段になると、素足(昭和初期より藁ぞうりを使用)で年少者から順に二列に並び、「だるま(アオキ)」の葉を二つに切った上に飯を盛り、それを会席膳(お膳の一種)にのせて各人が持ち、最後の二人がお酒の入った二合徳利を一本ずつ膳にのせて運ぶ。
 お地蔵様や道祖神、辻々に埋葬された動物の霊などに、葉にのせたご飯とお酒を供えて歩き、最後に横須賀水道の西側にあった三太塚と呼ばれた小高い塚に、残りのご飯とお酒を供えて終了。途中で振り向くと、振り向いた者に悪い病がついてくる、といわれているので、急いで宿に帰る。
 宿では、年長者が前もって沸かしておいた風呂に仲良く入り、それが終わると夕食。座敷にはご飯、味噌汁、煮物、漬物などが準備されていて、みんなで雑談をしながら食べ終わるころ、夕日が大山に沈む。そして、相模川を越えて聞こえてくる田村囃子の音を聞きながら、田園の橋を渡って涼風に吹かれながら家路につくと、辻飯の行事も終わる。
 大正十二年の関東大地震のころまでは、中河内の中央にある三叉路の、夕闇にぼんやりと輝く外灯の下に輪をつくり、ささらの音で踊る盆踊りを見た記憶がある。
 そのころ、男の子のお盆の楽しみは、神輿を担ぐことだった。小さな集落としては立派な神輿で、それを担いで家々を回っては御祝儀をもらい、年長者に分配してもらった御祝儀(お金)で、菓子を買うことを楽しみにしていたものだ。
 当時、収入の少ない農村で、唯一の現金収入は養蚕で、大きな養蚕農家でなければ百円札を見ることができない時代だった。そのため、神輿の提灯にも「養蚕神社」と書かれ、繭の収穫を祈ったものだ。
 戦争とともに神輿を担ぐ児童も減り、現在神輿は貴日土神社に保管されているが、時の流れとともに昔の行事も消えて、遠い過去の思い出さえも消え去ろうとしている。 

○ 参考 海老名むかしばなし第1集「辻飯」

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