蛇っ食い嘉衛門

 昔は相模川の水位が高かったので、貫抜川の川尻は水が淀んでダブになっており、夏になると背丈よりもはるかに高い真菰が生い茂って、背中に寒気を催すような気味悪い場所だった。
 中新田の諏訪神社の鐘(注)供養のあったころというから、元禄末期か宝永のころのことだろう。社家村の山王原堺に嘉衛門という百姓がいた。
 父親の治衛門は殺生は嫌いだといって釣もしなかったが、嘉衛門は漁は好きで、投網を持ってダブや相模川へよく出かけたが、豪力で身長があるので、普通の人には振り切れない大きな網を巧みにさばいた。
 ときどき大きな鱸(すずき)がかかることがあったが、うっかり手を出すと大けがをするので、手応えで鱸とわかると静かに網を引き上げ、息の根を止めて網からはずしていた。そのため大きな出刃をいつも投網と一緒に背負い篭に入れていたが、「漁には一人で行くな」と、父親が口ぐせのように言うので、でかけるときは必ず近所の仲の良い作太郎を誘った。
 六月の、風のないむし暑い日だった。ダブのはずれで網を打ったら、何にひっかかったのか手繰っても網が上がらないので、作太郎にみてくれと頼んだ。
 作太郎が水に入っていくと突然、水面が波立って大蛇が姿を現わし、作太郎を横くわえにした。剛胆な嘉衛門は背負い篭から出刃を取り出すと、水に踊り込んで蛇の喉元へ「グサリ」と突き刺した。
 大蛇は作太郎をくわえたまま、一旦水中に姿を消したが再び浮き上がり、喉元へ出刃を刺したまま、のたうち苦しんで息が絶え、白い腹を上にして恐ろしい姿を長々と水に浮かべた。
 嘉衛門が作太郎を助けて岸へ上がろうとすると、どこから出てきたものか三、四尺ぐらい(1メートル前後)の蛇が群れをなして襲いかかり、体一面にからみついてきた。
 得物がないので素手で防ぐしかない。作太郎を岸に放り上げると、からみつく蛇を片っぱしから食い千切ったが、後から後から小波を立てて泳ぎ寄る蛇の数は増すばかりだった。嘉衛門はつかんでは食い千切り、握っては噛み潰し、血みどろになって蛇の群れと闘った。
 同じころ、家では女房が繕いものをしていたが、虫が知らせるというか胸騒ぎがするので、信仰する観音様に灯明をあげようとしたら御本尊様が倒れた。急いで物置で仕事をしている舅にこのことを告げると、治衛門は何を思ったか、ダブの真菰刈りに使う刃渡り二尺(約60センチ)の長柄の大鎌を担いで駆け出して行った。
 貫抜川の仮橋を渡り、見当をつけて走りに走ると、ダブのはずれに見覚えのある背負い篭があり、水の中では嘉衛門が蛇の群れと血みどろになって闘っている。
 治衛門は、大鎌を振るって鎌首をもたげて伜に襲いかかる蛇を、草を刈るように刈り倒し薙ぎ伏せた。蛇の死骸は水面を覆い、その血で水は真っ赤になった。
 父親の加勢で危地を脱した嘉衛門は、顔も口の中も血だらけになって岸へ上がったが、治衛門は長々と浮かんでいる大蛇を鎌の先で引き寄せ、その胴体を切り刻んだ。
 半死半生の作太郎を抱えて家に帰った親子は、流しの下や、風呂場の洗い台の下に隠れているナメクジをたくさんつかまえて塩をかけ、そのぬめりを蛇の歯形の跡に塗ったので、腰から腿へかけてずらりと並んだ傷も化膿せず、その後の生活にも支障はなかった。
 これはネズミに噛まれたとき、ネコの涎をつけて痛みや化膿止めにするのと同じで天敵の持つ不思議な力を利用した治療法だということである。
 この凄絶な蛇との闘いは評判となり、みんなは嘉衛門を「蛇っ食い嘉衛門」と呼ぶようになった。その後、親子はダブの端に小さな石塔を建てて蛇の供養をしたが、それ以来、嘉衛門はぷっつり漁をやめてしまった。
 この社家のダブには蛇にまつわる話が多く、昭和になってからも大蛇を見たという人がいて、香具師が電気で捕る仕掛けをしたという噂があったが、大蛇が捕まったという話は聞かなかった。 

(注)諏訪神社の鐘・・・諏訪神社の釣鐘は元禄十五年(1702年)鋳造。

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