泣き蜆の由来

 同じ蜆でも呼び名がいろいろあって、隅田川のものは業平蜆と言い、月島のものは白蜆と呼んだが、近江産の黄色い蜆は赤蜆で、海でとれる海蜆はさざめである。
 海老名の蜆はいつのころからともなく泣き蜆と言われていた。これは蜆が鳴くのではなく、蜆にまつわる「聞くも涙、語るも涙」の話が多かったことに由来する。
 海老名では、田植え直後に発病する農家の主婦が多かったが、稲作地帯では、その時期には、身重であっても水田に入って重労働するため、冷えと過労によるものだった。
 小学生のころ、江戸時代からの農家の墓碑を調べたら、「信女」と刻まれたものには三十四、五歳が行年となっているものが多かったが、この年齢層の死亡率が高かったのは、地域の特殊性であったように思われる。
 海老名は県下有数の米作地で、田植えの時期には広い田んぼが十日前後で一面の青田に変わってしまったが、それは一株一株の手植えだったので、田植えが始まると村中こぞって、夜が明けるのを待って田んぼへ出掛けた。
 主婦もまた朝早くから連日手もとが見えなくなるまで、水苗代の苗取りをした。苗取りは女の仕事とされていたので、たとえ身重でも無理をして出掛ける主婦たちが多かったが、この時期は入梅と重なるので、上からの雨に濡れ、下からは冷たい水に冷され、しかも連日体を二重に折り曲げての仕事であるから、妊婦の体に良かろうはずはない。
 主婦が田植え上がりに発病するのは、過重労働によるものだとはわかっていながら、長い間農村の生活は改善されなかった。
 これは個々の農業経営のあり方にも問題はあったろうが、日々の生活が土地柄という古いしがらみから抜け出すことができなかったからでもあった。しかし、当時の農村は生活改善などできる情勢ではなかったので、「姑の跡は嫁が継ぐ」の諺どおり、代々同じことの繰り返しだった。
 田植えの時期に苦しむ「甲手」という手の甲の腫れも、腰を伸ばすのに悲鳴をあげるほどの腰痛も、田植えが終わるまでは、を合言葉に、みんなそれぞれに耐え忍んだが、主婦の過重労働には区切りがなく、田植えが済んでも休養はできなかった。
 食事の支度、洗い物、寸暇をみての繕い物、乳幼児の世話などで睡眠時間も十分にとれず、心身ともに消耗し尽くしてしまうのだが、それでも主婦は休養できなかった。
 「主婦と鍋釜は一年中休むことができない」とは良く言われた言葉だが、手のかかる乳幼児を抱えた農村の主婦たちには、この時期が肉体的にも人生の大きな峠だった。三十三歳を女の厄年というのは、こうした事実を言ったものだろう。
 三食昼寝付きで、育児ノイローゼなどという時代とは、生活環境も考え方も全く違った時代だったのである。田植え上がりの、体が動かせないほどの疲れも、二、三日休めば回復するだろうと安易に考えているうちに、無理を重ねた体には大抵むくみが出たが、それでも医者にみてもらう主婦は少なかった。これは医者にかかれる家庭が少なかった、という方が適切であったかもしれない。
 息切れが激しく、立つことも歩くこともできなくなって寝ついてしまってから、医者よ薬よと周りが騒ぎ立てるころには、大抵手遅れで余病が併発していたが、そうなってからでは、いくら海老名の蜆が万病に効くといっても、黄疸に特効ありといっても、もうどうにもならない。家族がとってきた蜆も、周りの人たちが見舞いに届けてくれた蜆も、手をつけることなくそのままで亡くなることが多かった。
 天寿を全うした老人の死でも、周りの人たちには悲しいことである。ましてや幼い子供を二人も三人も残した若い主婦の死は、二代三代にわたる悲劇であった。
 野辺送りに集まった人たちは、小桶などに残っている蜆を見ては泣き、話し合っては泣き、家族縁者はもちろんのこと、近所の女衆たちもみんな目を泣き腫らした。
 残っている蜆は、「涙の種」になるというので、大抵棺とともに埋めたが、貝殻は腐らないので何年たってもそのままである。土葬だったころは、墓穴を大きく掘ったから古い墓穴と重なることがあり、蜆の殻がまとまって出てくることもあったが、いずれも悲しみの涙とともに埋められたものだろう。
 日露戦争当時、泣き蜆は良くない呼び名だというので、古川村長の提案で「海老名蜆」と呼ぶように改められたが、戦後蜆の絶滅とともに泣き蜆の由来を知る者もなくなった。
 湧くようにとれた海老名耕地の蜆も、今は全く姿を消してしまったが、後世のために語り伝えておきたい話である。

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