笠松と烏比丘尼

 海老名には、古くから「天台」という地名が二カ所あった。一カ所は上今泉台地の秋葉山古墳の付近で、もう一カ所は、今は国分寺台団地の造成で消えてしまったが、大谷の東北端、旧八王子街道を隔てて早川に隣接した台地である。大谷の古地図にもはっきり載っているが、いつのころからか天台といえば上今泉天台、ということになってしまった。
 昔、大谷天台にも有名な松があって、これは下枝が張って市女笠を伏せたような形だったので笠松と呼ばれていたが、山火事のために枯れてしまった。
 松に限らず樹齢を重ねた大きな木は、長い年月の間には風雪のために枝折れがしたり、落雷で焼けたりするものだが、この笠松は丈が低かったので風による枝折れもなく、また横に張った下枝は、周りの雑木などに支えられて雪折れもしなかったのだろう。
 松は樹齢が千年に達するころには下枝が地に着くといわれているが、この笠松は自然の姿そのままに盆栽のように見事な枝振りだった。
 この笠松の下に庵を結んで一人の比丘尼(尼僧)が日夜読経の修業生活をしていたが、いつも真っ黒な順光頭巾で顔を包み、目元だけしか出さず全身黒ずくめだったので里人は烏比丘尼と呼んでいた。
 切れ長の目、長い睫、黒水晶のように深く澄んだ瞳、頭巾をとったらどんなにか美しい尼さんだろうと思われたが、ついぞ人前で頭巾をとったことがないのでその素顔に接した者はなかった。
 この比丘尼は烏の啼き声を巧みに使い分け、その声に応じて集まり散じ、さまざまに動く烏の群れは、優れた指揮者のもとに行動する軍団のようだったし、いつも何羽かの烏が身辺を護衛し、事態に応じて千変万化に対応するので、烏の妖術を使うのだという者もいた。
 しかしこの烏の群れは、他の鳥や獣をいじめたり差別したりすることもなく、また行路病者などを見つけると必ず知らせたので、その都度烏比丘尼は手当てをし、亡くなった場合は埋葬してねんごろに弔ったので生き仏のように尊敬する人も多かったが、人の世には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとうもので、法衣を隠れ蓑にして懐中を狙う偽善者などという者もいて、抜き取った路銀が庵に隠してあるという噂もあった。
 これを信じたのだろう。あるとき盗賊の一団が庵を襲った。このときは空が暗くなるほど烏が集まって反撃したので、血まみれになって逃げ散ったが、性懲りもなく夜陰に乗じて再び庵を囲んだ。
 比丘尼は気配を察して灯を消して身を隠した。押し入った盗賊たちは漆黒の闇の中を手探りで歩き回ったが、すべてが闇に溶け込んでしまったかのように何も触れるものがなく、広い洞窟の中を迷い歩くようなので怯えきって退散した。
 度重なる不思議な現象に恐れたのか、盗賊たちはその後決して庵には近づかなかった。
 烏比丘尼については不明な点が多いが、この土地には、幼いときに父を失った太田道潅の娘凰姫(とりひめ)が成人して黒凰尼(こくおうに)と名乗り、父の恨みを晴らすため影の軍団を率いて暗躍したという伝説もあり、それと重なって謎めいている。
 笠松の下には、「千年の齢笠松天台に鳥も来て住め人も集まれ」と刻んだ小さな碑があったというが、元禄のころすでに風化して、はっきり読めない文字もあったそうだ。思い合わせるとこれも何か深い意味があるようにも思われる。
 上の句の「松」は「待つ」の掛け言葉であることは理解できるが、下の句には不自然さがあって隠れた意味があるようにも受け取れるので、「鳥」の一字が「烏」ではないかと論争になったという。
 永禄十二年(1569年)甲州の武田勢が小田原を攻めるために相模川の上流を押し渡ったとき、下流の川東の村々に忍びを潜入させて火を放ち、大軍がいると見せかけて北条軍を牽制し、その撹乱を図った。そのときお宮やお寺や多くの民家が焼失し、それが大きな山火事となって一帯の山林は悉く焼けてしまったが、笠松もその火にあぶられて枯れてしまった。
 この辺りには、早川村(綾瀬市)も含めて樹齢四百年を超えたものが全くないのはそのためであるとは、古文書が残っているという旧家の老人の話だった。
 烏比丘尼の作だという笠松の下の句は、古歌の「蝉も来て鳴け鳥も来て住め」を引用したものだということだったが、元歌がどうだったのか、根拠はどこにあったのか、聞き漏らしてしまった。
 この天台のすぐ西の湿地帯が「けかち谷戸」で、近くには赤池や石谷戸、堂山城などがありいろいろな伝説がたくさんあるが、今は伝える人も無く、大正の頃まで実際に使われた野天火葬場の位置さえ知る人が少なくなってしまった。

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