海老名の蜆と烏貝

 蜆は、貝殻の模様が織物の縮に似ているところから名付けられたものだという。漢方では黄疸を治し、浮腫(むくみ)、寝汗をとる、と説いている。
 海老名の蜆は古くから肝臓に効き内臓の衰えを回復し、母乳の出を良くすると言われ、乾燥した寒蜆を薬研で細かくしたものは労咳(肺結核)に早効があるとも伝えられている。
 「一がイナゴで二が小エビ、三がタニシで四がシジミ」と海老名の四大名産に数えられ、街道に馬を引く馬子の馬方歌にまで歌われたこの蜆は、戦前は海老名耕地のいたる所にいた。小砂の多い小川や用水堀の水底を探ると、小石に触れるような感じでいくらでも拾うことができたし、金網ですくって水中で砂をふるい落とすと、一度に両手に入り切らぬほど採れた。
 蜆が海老名耕地の名産にあげられるようになったのは江戸中期以降のことらしく、それ以前の記録にはタニシや烏貝のことは書いてあるが蜆はのっていない。蜆は烏貝と違って軽い砂地を好むので、重い粘土質の海老名耕地にはなじめなかったのだろう。
 郷老の話によると、富士の噴火による火山灰がその繁殖を助けたのだろうということだったから、宝永四年(1707年)の噴火によって層をなして積もった軽い砂が、その生態形を変えたものと考えられる。
 蜆が小砂の川底などを好むのに対して、烏貝は粘質土の沼地がその生活に適していたので、この両者は同じ土地に生息する二枚貝でありながらその生活圏ははっきり分かれていた。
 烏貝は色が真っ黒なのでその名がついたのだろうが海老名では普通「田貝」「溝貝」あるいは「どぶ貝」「ばか貝」とも呼び、国分の大釜付近、中新田の一つ橋堰上、沖田、大谷の六つ沼、流、清水前の田んぼなどに特にたくさんいて、大人が手のひらを合わせたほどのものも珍らしくなかったが、清水前には草鞋より大きいものがいたそうで、そのためか幾つかの化け貝伝説もある。
 「赤池と片葉葦」の伝説は、孤独な烏貝が経文の功徳により、仏果を得て白衣の菩薩になるという美しい物語なので以前紹介したが、その他のものは妖淫卑醜なものが多く、昔話として伝える価値のあるものは少ない。
 この土地で烏貝を「ばか貝」と呼んだのは、泥臭くて上品さがなく、大きいだけで味も良くないことからの発想からであったが、本来ばか貝というのは「アオヤギ」のことで淡水ではとれない。
 また、方言で「かたっけえ」ともいうが、これは堅貝の訛りで包丁の刃も入らぬほど二枚の殻を堅く閉じてしまうことから呼ばれるようになったものである。
 蜆は水温が上がると呼吸作用が激しくなるので、夏は同じ容器に長く入れておいたりすると酸素不足で落ちるが、死んでも口を開かないのでうっかり食べると中毒を起こした。「土用蜆の取り置きは危ない」というのはそのためである。
 蜆は五度前後だと落ちることがないので寒蜆は中毒の心配が少なく、生きたまま遠くまで運ぶことができたので珍重され、親戚などへのよい手土産になった。
 寒蜆は佃煮にしたり、むき身にしたり、乾燥したりして保存したが、蜆の串焼きは酒の肴に手ごろで、馬方や人足が好んだため春のタニシ田楽と同様、立て場(注)や腰掛茶屋ではよく捌けた。保存しておいた乾燥蜆や佃煮を使った蜆飯は、手がかからず味もよいので不時の来客の折にはよく使われたし、また喜ばれもした。
 相模川の清流をひかえた山紫水明の地として知られた海老名は、訪れる風流人も多かったので、この蜆飯が一時名物として好評だったが、たまたま熱病が流行したとき、鮎料理を看板にしていた業者の中に「原因は蜆飯だ」と言いふらす者がいて、それ以来ぱったりと姿を消してしまったということである。
 いたる所にたくさんいた蜆も戦後は全く姿を消してしまったが、潅漑用水の完全管理により、冬期小溝に全く水がなくなってしまうことも大きな原因だろうし、下水や工場廃水も当然その原因といえるだろう。また、戦後盛んに使用された農薬がさらにその絶滅を早めたことはタニシ、エビ、イナゴなどと同じであろう。もちろん烏貝も全く姿を消してしまった。今後海老名の蜆が食膳に上ることは永久にないかもしれない。 

(注)立て場・・道中人馬を憩わせる所、馬宿とも言った。

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