地神講

 春分、秋分に最も近い戊の日を社日と呼ぶが、「社」には「土地の神」の意味があるので、農家は地神講中という組織をつくり地神を祭る風習があった。
 大正のころの話であるが、地神講の朝になると決まって、「これを地神様にあげてこい」と、父は藁をきれいにすぐって作ったつとっこ(注)に赤飯を盛ったものを差し出して言いつける。地神様というのは、相模横山の峰づたいに私の家の約五百メートル北方へ行った山中にある地神塔をさすのである。
 この地神塔は、雑木林にただ一本生えている赤松の張り出した枝の下に、ぽつんと建っていた。後年調べてわかったが、地神塔の高さは台石とも1.06メートルの五角柱で、一面の幅12センチメートル、正面には「天照大神」、ほかの角面には「大巳貴命、少彦名命、埴安媛命、倉稲魂命」台石には「寛政九(1797年)丁巳天吉辰造立之者也」と刻んである。
 塔の前には、自分があげたと同じ供物がたくさん置かれていた。そのはずである。私の方は小名辻、谷戸、日久保の最寄り講中だが、別に逆川と瀧之下の講中を加えた三講中共有の地神様だからである。講に当たる宿は輪番制で、当番の家では前もって講員の家へ日時を触れておく。この日は鍬を持って土を動かしてはならぬという禁忌があり、農事は一切休むので、昼講といって宿への集合は午前十一時、戸主が出席するのが建前だった。
 宿ではあらかじめ地神の軸を掲げ、御神酒と料理をお供えしておく。掛け軸の上部には「社日祭悪神除萬民守護之尊像」とあり、天照大神をはじめ二十八柱の神々の姿が重なるように描かれており、裏面に「明治二年八月社日修復」とある。江戸後期のものであることは間違いない。このほか、「講中連盟」として九人の氏名が書かれている。
 この古い掛け軸に向かって一同はお賽銭をあげ線香を手向け、春ならば五穀豊穣を祈り、秋ならばその実りを感謝するのであった。線香は神仏混淆の名残であり、お賽銭はその合計が御神酒一升帰る程度の額で、そのほかの経費はすべて宿で負担した。
 礼拝が済むと年長順に着席し御神酒をまずいただき、その後は燗酒で酒の肴を突つきながら懇親会に移る。話題はその年の作柄から始まって四方山話。この時間帯が、年寄りから昔話や処生上の知恵を吸収する良いチャンスなのである。
 料理は大体決まっていて、さしみ、煮魚のほかは手料理の揚げ物、煮しめなどで、おもつり(納盃)となると赤飯やけんちん汁が出て宴は閉じられる。そして誰かが待ちかねたように、「さあ、一丁やるか!」と言うと、以後は花札に興ずるのであった。娯楽の少ない時代だったので、地神講にかこつけて思いきり遊楽に耽ったのである。
 昭和四十三年、地神塔のあった地域が宅地造成されるようになると、地神塔は国分児童館前の伊勢山大神宮の境内に移転された。
 一方地神講は戦時中一時中断したが後復活し、以前からの慣習を踏襲してきたものの、時代の流れでほとんどが兼業農家に転じたので、平成元年秋の地神講を最後に講そのものは取り止め、例の掛け軸のみを順送りに各家個々にお祭りすることとし、僅かながら命脈を保つように計られたのである。  

(注) つとっこ・・・藁でくるんで包みにしたもの。藁づとともいう。

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