上郷の虫送り

 昔、まだ農薬が発明されなかった時代、ウンカ、ズイムシ、イナゴなどの大発生により、田一面が白穂となり大きな米の減収に見舞われる場合が往々あった。そこで、この害虫を除く呪詛的な行事として虫送りという風習が全国的に広く行われていた。その方法は時代により地域により様々であるが、明治四十年ごろ、上郷地区では次のように執り行った。
 六月下旬をピークとした田植えも終わりを告げ、稲の分けつが盛んな七月下旬となると、日時・集合場所・お神酒銭のことなど、例によって例のごとく虫送りの触れが出される。
 当日、日もやや西に傾き、日差しが幾分弱まったころ、村の人たちは三々五々唐人じゅばん姿で鎮守の森の有鹿神社へと集まって来る。準備は神前に供えるもののほか至って簡単である。半紙を縦に三~四枚はり合わせてそれに祈りの文字を書いた。「豊作祈願」とか「虫送り」とか墨こん鮮やかに書いたらしい。それを上部に枝を残した男竹に結いつけた流し旗を四~五本作るだけなのである。
 やがて、神主さんの支度も整うと拝殿で式が始まる。修ばつ、献せん、祝詞奏上と型通り式が済むと、一同お神酒を頂き行列を組んで海老名耕地目指して出発する。流し旗が先頭、次に大太鼓を青竹につるして差しに担ぐ人とばちを持つ一組、それから神主さんと村の役人、その後一般の者の順に進む。
 義務として、一戸一名は必ず参加する決まりになっているから、その数約八十名。それに子供たちももの珍しげにぞろぞろ後につくから大行列ができあがる。音頭とりが声を張り上げ、「稲の!虫を!おっくーれ!」と唱えると、ドンドンと太鼓を打ち鳴らす。一同の者が同じように「稲の!虫を!おっくーれ!」と唱和する。とまたドンドンと合いの手が入る。こういうことを繰り返しながら田んぼ道をねり歩くのである。 

 順路は道場前(小字名)から東方、現在の小田急海老名駅前あたりへ、そしてその北方一帯の下牛が淵から上牛が淵へと北上し、こんどは西方、寺町の方へと一巡。最後は鳩川へ旗を流して一同解散するのであった。
 大正時代になると夜間行事となり、虫が寄ってくるようにとぶらちょうちんや弓張を数多く持ち出し、子供の太鼓を打ったり金だらいやバケツを火ばしでたたいたりして耕地を回り、国分境で一斉に灯を吹き消し暗い道を急ぎもどってくる方式となった。戦後は鳴り物を廃すなど簡素化したが、なお昭和四十年ごろまで続いていたという。

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