老狐の執念

「時は元禄十四年、雪降る師走の十四日、夜更けの本所松坂町に響く太鼓は山鹿流」、ここまで語れば、誰でも忠臣蔵の四十七士の討ち入りと気がつくことと思うが、泰平に溺れて武士も庶民も奢侈に流れ遊惰に耽って心の拠り所を失っていた元禄時代、頭上に原爆が落ちたほどの衝撃を与えたのが赤穂浪士の討ち入りであった。
 元禄は十六年(1703年)で宝永と改元しているがその頃の話である。大山街道沿いの大塚の宿外れに大きな質屋があった。その質屋の土蔵に幽霊が出るとか、妖怪が棲んでいるとかいう噂はずっと前からあったが、地元の人でもそれを実際に見た者はなく、また確証もないのでみんな半信半疑でいた。
 しかし、江戸から腕の立つ武芸者が化け物退治にのりこんで来たと伝わると、急に質屋の土蔵が話題になり、小さな宿場だけにいろいろ取り沙汰されるようになった。
 大塚宿は柏ケ谷村に所属しているが、道ひとつ隔てれば栗原村(座間市)であり、目と鼻の先には寺尾村(綾瀬市)があり、更に鶴間領、上草柳(大和市)領に隣接しているという土地であるから、噂は噂を呼んで伝播していった。
 宿場の中には「質屋に変わったことが起きるようになったのは、二十年程前、旧家の隠居が長持いっぱいの書画骨董を質入れしてからのことだ」と喋って歩く閑人もいた。
 事実、質草を預かったその晩、質屋の主人は閉め切った部屋の中を歩き回る目に見えない動物の足音に悩まされたし、その後も真夜中に、気ぜわしい息づかいの間に動物特有のくしゃみを枕元で度々聞いているのである。
 従って「預かった質草に何か訳があるな」とは感じていたが、旅に出た息子が戻るまでは流さないという約束があるのでそのことについては長い間一切口外しなかった。
 しかし、番頭は「土蔵の窓から光が見えたので、よく中を調べてみましたが変わったことはありませんでした」と、怯えた表情で度々報告しており、女中も「土蔵の観音開きから火の玉が出入りするのを何回も見ました」と気妹悪がっていた。
 丁稚小僧も「土蔵へ入ろうとすると足が震える」と訴え、いずれも暇を欲しいと言い出しているので、家族や使用人の動揺をおさえる意味も込めて武州御嶽山の修験者を呼び悪魔調伏の祈祷をしてもらうことにした。
 修験者は土蔵にこもって長い時間、怨敵退散悪霊降伏の修法を行ったが、正面の長持の上に両手で囲んだほどの火の玉があらわれ、汗をしぼって呪文を唱え九字を切っても効果はなく、消えるどころかますます青白い輝きを増すばかりだった。
 修験者はそれが幽明の境を迷う動物の霊であることはわかったが、「自分の力の及ばないところである」と告げて帰って行った。
 そこで今度は腕の立つ武芸者を呼んで、この妖怪を退治しようということになった訳である。
 武若者は主人の希望により逗留して様子を見ることにしたが、変わったこともなく十日ほど過ぎた。主人も周りの人たちも、武芸者の腕を恐れて化け物も退散したのではないかと囁き合っていたが、或る晩「土蔵の窓から灯が見える」と家人が知らせて来たので、おっとり刀で駆け付けた武芸者が錠を外すのももどかしく中に踊り込むと、正面の長持の上に光の輪が揺れ動いていた。
 刀の鯉口を切ってにじり寄ると、光の輪全体が大きな火の玉となって相手方からも近づいてきた。間合いをはかって抜き打ちに切り下げたが手応えはなく、天地が逆さになったように激しい目まいで思わずよろめいたが、片膝をつくと下から斜めに切り上げた。
 光の玉は一瞬遠のいたように思えたが、雷でも落ちたような稲妻が剣先から八方に走り、持った刀ははじけ飛び、同時に肘も肩も硬直して体の自由を失い、人の字を上から圧しつぶしたような格好で横倒しに転がってしまった。
 武芸者の体が、硬直したまま支えを失って横倒しになると、どこからか震えを帯びた、かすれた声が聞こえてきた。
 それは、琵琶の弦をゆるめて鳴らすような低い響きで「頼むことがある。いま呪縛を解くのでよく聞いてもらいたい」と、繰り返すのだった。
 手足の自由を得て我にかえった武芸者が、起き直って光の玉に正対すると光りは大きく揺れ動き、その中から白髪の老人が現れ「自分は土地の旧家に祀られている屋敷守り稲荷の眷族(けんぞく)で、通力を得た老狐である」と、身分を明らかにしたのち、家督争いから始まった主家浮沈の経過を次のように具(つぶさ)に語り出した。
 「隠居様は、旦那様が妾腹の弟に毒殺された事実を知りながら、人当たりがよくて弁舌巧みな弟の肩を持ち、一族の恥であるということを口実に公儀にも届けず、事件を闇から闇へ葬ってしまった。しかし、天網恢恢の例にもれず露見してしまったので、下手人である弟は公儀のお取り調べの手がまわる前に、風をくらって出奔してしまった。
 古くからいる召使いからことのいきさつを聞いた若旦那は、仇討ちをするためその行方を追って旅立ったが、その門出に当たり稲荷の祠の前で『本懐を遂げて帰るまで、我が家とともに伝来の家宝を守ってくれ』と依頼された。
 その後、何年たっても便りはなく、その消息はようとして不明であるが、隠居様は家宝の書画骨董を質入れしてから間もなく他界した。
 若旦那の頼みに従って、家宝の納めてある長持を守って質屋の土蔵に移ったが、すでに生物としての生命は尽き、執念でこの世に留まっているので、この体はこの世のものであってこの世のものでない。ぜひ、若旦那の消息を知りたいので探って知らせてもらいたい。その結果がわかるまでは妄執となってこの世に留まらなければならないので、くれぐれも頼む」と、言い終わると老人の姿は消え、先程手からはじけ飛んだ刀はいつの間にか腰の鞘に納まっていた。
 武芸者は仔細を質屋の主人に話し、老狐のいう若旦那の行方を追ったところ、何年か前上総の木更津で叔父を討ち果たしたが、加勢の浪人たちのために深手を負い、その翌日亡くなって近くの寺に葬られた事実を突き止めた。
 早速戻って質屋の土蔵に入り、光りの玉に向かって一部始終を語ると、現れた老人は武芸者に厚く礼を述べ、その義侠に報いるため「断息延命」の秘法を授け「もうこの世に執着も未練もなくなった」と、老狐の姿になって長持の上にうずくまった。すると不思議にもやせ細った老狐は、目の前で見る見る白骨になってしまった。
 武芸者は、節を重んじ義に殉じたこの老狐の霊を弔うため供養碑を建てることを主人にすすめたが「質草を詮索していちいち供養していたのでは、商売にならない」と、断られたため、礼金の一部を近くの寺に寄託し老狐の供養を頼んで江戸へ帰って行った。
 何日かの後、この質屋は全く火の気のない土蔵から出火して母屋ともども全焼し、家財も質草も何ひとつ残らなかった。その後この一家は離散してしまったというが、それ以外のことはこの土地には伝わっていない。
 血筋が絶えてつぶれ屋になってしまったこの旧家は、その後領主や役人の計らいで何度も再興が計画されたが、この廃家のあとを継いだ者は必ず不慮の死によって一代で絶えてしまった。
 その旧家のものといわれている墓地は長い間雑草に埋まって石塔も風化し、文字の読み取れるものは殆どない。
 明治の初期、世情の混乱に乗じてこの墓地を私有墓地にしようとした人があったそうだが、不幸が続いたため周囲の忠告に従って中止したということである。

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