半作と狐の女房

 大谷の横須賀水道が東名高速道路の上を陸橋で横切るあたりは、明治の初めまでは山王原と言い、文政(1818~29年)のころ、ここの一軒家に半作という男が一人で暮らしていた。
 体格も良く顔も人並みで常人と変わるところはなかったが、知能は低く頭の回転は鈍かった。だが、運搬や単純作業などの場合は二人前の仕事をしたので「頭半作仕事二作」とか、「顔は一作知恵半作」などと言われ、よく話題になった。
 しかし、半作はやさしい心の持ち主で、丹精した作物を野鳥や野兎などに食い荒らされても「あいつらだって腹がへってがまんできなかったんだろう」と言って、決して罠を仕掛けて捕らえたり殺したりはしなかったので、菩提寺の住職は「半作の慈悲心は常人の遠く及ばないものである」と言い、「仏心五作」といってほめていた。
 どんな人間でも、必ず他人の真似ることのできない美点長所や特技を持っているもので、この半作は萱(かや)刈りの名人だった。どこにこつ(急所)があるのか、半作の刈った萱は使いよい、と屋根職人の間でも定評があった。
 半作は秋から暮れにかけては毎日萱野に出て萱刈りをして、それが終わると湿地に生えている葦を刈って葦簀(よしず)を編んだが、丁寧な仕事をするのでこれも好評だった。
 師走の雪の降る晩のことだった。土間で葦簀を編んでいたが、あまり寒いので蕎麦掻きでも食おうと思っていると、「こんばんわ、こんばんわ」と戸を叩く者がいる。
 戸を開けると舞い込む吹雪とともに入ってきたのは、白い手拭ぐいを冠った気味悪いほど美しい女だった。
 「道に迷った者ですが、寒さと空腹で死にそうです」と、言うので、「ちょうどいい、これでも食いな」と蕎麦掻きを作って丼ごと渡すと、つつましく箸でちぎって食べていたが、「おかげ様で助かりましたが、ひと晩泊めて頂けませんか」と言う。
 血のめぐりの悪い半作は「ああ、いいよ」と承諾したが、この女は次の日もまた次の日も出て行こうとはせず、いつの間にやら女房気取りで半作の身の回りの世話をするようになった。
 正月になって、小綺麗ななりをしている半作に気付いた村人が「女房でも貰ったのか」と、からかうと「綺麗なかみさんが来てくれた」と、にやにや笑うだけだったが、このことは、たちまち評判になった。
 女房を貰えば人別帳にも記載しなければならないので、菩提寺の住職が半作に「実家はどこ、年齢はいくつ、名前は何と言うのか」と、問いただした。
 しかし、「名前はお雪」と言うだけでさっぱり要領を得ないので、ある晩、住職、村役人、組頭が揃って半作の家へ出向いた。
 三人は、どう考えても半作とは釣り合いの取れない上品で美しい女房にびっくりしたが、何か尋ねようとする前に、白い手拭いを冠って裏口から出て行ってしまった。
 いくら待っても帰ってこないので裏口へまわって見たら、そこから向こうの森まで、雪の上に点々と狐の足跡が月の光に凍りついていた。

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