乳房を撃てと胸を広げた女

 彰義隊と官軍が戦ったのは、慶応四年(1868年)のことだが、五月十五日の緒戦で幕軍は多数の死傷者を出して動揺した。このとき、官軍の使ったアームストロング砲の威力にはさすがの彰義隊もどぎもをぬかれてしまったが、鉄砲隊の鈴木文左衛門はその凄まじい爆音に、これでは太刀打ちできないと、いち早く戦うことの不利を察知して江戸を脱出し、かつての使用人の生家である大谷の某家に身を隠した。
 やがて明治となり、幕府の崩壊により禄を失った武士たちはその日の生活にもこと欠き、家具什器ばかりでなく、先祖伝来の甲冑武器までも売り果たし、やがてそれぞれに縁故・知人などを頼って江戸を去って行ったが、官軍は江戸を離れた幕臣の行方を詮議することもなく、却って直参の旗本などの中から有能の士を抜擢して新政府に協力させる方策をとった。
 維新後、五人組や名主の制度もなくなり、廃仏毀釈の新政策で寺の権威も失われ、人別帳も有名無実になってしまったので、大谷村の人たちも農家に寄食している文左衛門を知る人は少なかった。また、激動する時代の転換期で、それぞれが自分たちの生きることで精いっぱいだったので他人のことなど関心を持つゆとりもなかった。
 当人も再び世に出るつもりはなく隠遁生活を続けていたが、性質の悪い狐が村人たちを苦しめていると聞いて、それを始末してやろうと思い立った。鉄砲隊にいたので射撃には自信があったし手元には江戸脱出の折、持ち出した鉄砲隊自慢の舶来銃がある。
 思い立ったが吉日と、その晩、身ごしらえをすると提灯も持たず狐退治に出掛けたが、ひと晩中、野道、山道を歩きまわっても不審なものには出会わなかった。もともと狐が何時どこへどんな形で出てくるのか見当のつけようもないので、期待や失望もせず漠然ともうひと晩、もうひと晩と行動範囲を広げて歩きまわっていたが、或る晩、下浜田の一と跨ぎのせまい谷戸田を越えて堂山へ出てみた。
 現在の大谷小学枚のあたりは舌状台地の小高い丘で、これを横切るように上る山道は石段のように急な胸突き坂で、露出している木の根が無ければ上れないはどの急坂だったので、上り口をすぐに左に折れて斜めに上る坂道へ出た。この道はなだらかで、上りつめた所に昔、十王堂があったという平らな場所があり、松の大木が立ち並んでいつも松籟(しょうらい)を奏でていた。
 そこまで行った文左衛門は松の間に人影の動くのを見て立ち止まった。手にしているのは幕府の誇った新鋭銃である。引きがねに手をかけてすぐに発射できる体勢で近づくと、出てきたのは田舎では見掛けぬつぶし島田のなまめかしい女だったが、不思議なことに闇であるのにその姿だけがくっきりと浮き出して見えた。
 その頃江戸で職場を失った商売女たちが、地方へ流れて田舎の宿場で客を相手にしているのは珍しいことではなかったので、これもその類いかと目を凝らすと女はにっこり笑って胸をはだけ、乳房を出して手招きした。
 闇の中で幻灯のようにゆれる女の姿を見て「さては妖怪」と引きがねを引いたが手ごたえはなく、女は胸を広げたまま相変わらず手招きしている。その胸元を狙って再び引きがねを引いたが影を撃つようでまるっきり手応えがない。立ちくらみのような目まいを感じたので、片膝をつき弾薬盒に手をかけて弾丸をつめ直そうとした時、何物かが肩越しに前方へ霧のようなものを盛んに噴いているのに気がついた。
 「こやつだな」と銃を持ち直して肩に担ぐと間髪を入れず親指で引きがねを向こうへ押した。うしろを狙った得意の曲撃ちである。耳をつんざく轟音と共に女の姿は消えたが、同時に襟元に霧を吹きつけられたような気がして、体にふるえがきて止まらないので、そのまま銃を担いで家へ戻ったが、灯りの下で見たら肩も背も一面の血しぶきだったので周りの者がみんな驚いた。
 夜明けを待って昨夜の場所へ行って見たら、大きな狐が胸を撃ちぬかれて死んでいたので、近くの百姓に頼んで運ばせ、首を縛って物置の入り口にぶら下げたら、六尺(約180センチ)の馬草(鴨居の代わりに使う入口の横木)の高さに余って尻尾の先は地面で折れ曲がるほどだった。
 その後、大谷の狐騒動はなくなった。

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