陣太刀に映る金毛の狐

 相模の中央渋谷の庄に根を張っていた豪族渋谷一族は、宝治二年(1248年)、一族こぞって薩摩の国に移動してしまったが、これには面白い言い伝えがある。
 渋谷重国の子光重には六人の男子がいたが、長男重直が生まれたとき、その武運長久と一族の繁栄を祈願して守り刀を打つことを鍛冶屋部落の長に命じた。この刀鍛冶は実戦に強い腰折れの剛刀を鍛えることを得意としていたが領主の命を受け、地金の厚い長身の大陣太刀を鍛え上げることを心に決し、「どうか名刀が鍛え上げられますように」と、鍛冶屋部落の鎮守稲荷明神に参籠祈願した。
 満願の夜、稲荷明神が金毛の狐を従えて現れ「屈強な向こう槌を差し向けるから四囲を清めて待て」と、告げられた。
 刀匠がしめ縄を張り巡らし仕事場を清めて待っていると、身の丈抜群の偉丈夫が大鎚を担いで現れ、刃渡り三尺八寸(約百十五センチ)、束元より急に反り身となった腰折れの大陣太刀を打ち上げると、刀匠の名に並べ″命婦丸″と銘を刻んで立ち去った。
 ここまでは長唄「小鍛冶」の筋書きである三条宗近と小狐丸の話とそっくりだが、ここから先は全く違って面白いのである。
 この霊刀は渋谷一族の浮沈にかかわる大事の前には、必ず激しく鍔鳴りしてこれを知らせ、抜き放つとその光芒の中に金毛の狐の姿がありありと現れて神意を伝え、進退去就を指示した。
 六人兄弟のうち五男定心は出家して堂山に持仏堂を建て、ここに籠っていたが、病弱遁世は表向きのことで、実はここに霊刀命婦丸を奉安して、一族の大事はこの陣太刀に映る狐の口を通して神意を受けていたのであった。
 出家したこの五郎定心は別としても、相模の中央に結束している渋谷党の五人の智将は、北条氏やこれを取り巻く鎌倉武将にとっては不気味な恐ろしい存在であったろうし、まだ若い時頼にとっては目の上の瘤であったに違いない。
 血で血を洗う鎌倉武将の相克は頼朝の幕府創立以来のことで、源氏三代北条九代は正にこの骨肉相食む血の争いであり、畠山重忠、稲毛三郎をはじめ、名将智将が術策にはまってこの争いに巻き込まれ、一族を滅亡させた例は数知れない。わざわざ事を構えて三浦氏千葉氏を滅ぼしたのも、まだ若い時頼の策略であった。
 この権謀渦巻く鎌倉圏外へ脱け出す以外に道はない、と見抜いた渋谷一族は、長男重直だけを早川城(綾瀬市)に残して集団移動を決行したのであるが、行き先は九州の果て薩摩の国である。正に一族の興亡浮沈を賭けた大勝負で、常人が簡単に判断処理できる問題ではない。
 これを稲荷明神の神意に従ったものであると語り伝えているのは当然で、当時の情勢からその伝承は十分理解できる。
 このとき薩摩の国高城郡に移った次男実重は、川内川の上域東郷の地を領し、東郷次郎と改称した。その子孫が日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破り、″東洋のネルソン″と言われた東郷平八郎元帥である。
 もしも相模の一隅に恋恋としていたら、周囲の術策におちて渋谷一族は滅亡していたかも知れない。いろいろな意味で命婦丸の伝承は味わい深いものがある。
 高城郡に移った渋谷一族については、後に服属して姻戚関係を結んだ島津家の文書や祁答院文書に詳述してあるというが、宝刀命婦丸のことが伝えられているかどうかは不明である。この大陣太刀を鍛えた刀工を正宗であるという人もいるが、口碑には鍛冶屋部落の長としか伝えていない。

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