雌狐のために命を落とした話

 場所は大谷峰、国分境の上打越であるが、化かされた人は杉久保の人である。江戸時代のことで古い話でもあり、その人の名は伝えられていない。
 親戚からの帰りに上打越にさしかかると野道の果てに灯が揺れている。近づいて見ると、このあたりで、ついぞ見かけたことのない御新造(若奥様)が、定紋の入った提灯を持って立っている。定紋の入った提灯は格式のある家でないとふだん使わないので、この人はそのときまず提灯を信用してしまった。
 塗り下駄が隠れるほど長目に着た小紋の裾は、夜露にぬれて提灯の火に光っていた。
 「いかがなさいましたか」と丁寧に言葉をかけると、ほっとしたように「道に迷って途方にくれております。竜峰寺はどの方角に当たりましょうか」と言うので、「おいでになるのですか」と尋ねると「一刻(現在の二時間)ほど前にそこを出ましたが、狐にでもつままれたのでしょうか。同じ所を何度も歩いているような気がして、方角がわからなくなりました」と、言うのである。
 「夜更けの野道をお一人では危のうございます」
 「寺の者が途中まで送ってくれましたが、主人を亡くして独りでおりますので、寺方に疑われても困ると思い、無理に帰して一人で帰宅する途中なのです」と言う。
 いろいろ話しているうちに、住まいは何度か前を通ったことのある旧家とわかったので、「お送りいたしましょう」と言うと、渡りに船という風情で、「お願いいたします」と、初めてにっこりしたが、黒く染めた歯が口もとからこぼれるように光っていた。草の露にぬれながら屋敷まで送り届けると、女中ともども下にもおかぬもてなしである。
 しかしよく考えてみれば、秋草の生い茂る人里離れた夜更けの野道に、若くなまめかしい未亡人が一人で立っていること自体が不思議なことなのであるが、その不自然さに気がつかないところが既に魔性に魅入られた証拠であろう。乞われるままに、わけもわからぬ屋敷に何日も逗留し続けた。一方、自宅では主人が何日も帰らないので、神隠しにでも遭ったのではないかと大騒ぎになり、村中で捜したが消息はつかめなかった。
 たまたま茸取りに山へ入った人が、谷戸奥の崖下にあるうす暗い穴の中に寝そべっている幽鬼のような人の姿に驚いて、村役人に知らせた。
 髭は伸び髪は乱れて、やつれ果ててはいたものの、調べてみたら何日か前に姿を消したその人だった。連れ戻されても放心状態で口をきかず、水ばかり飲んでいたが、二、三日たって正気づくと、ことのいきさつをぽつりぽつりと話し出した。話がひと区切りつくと麻痺でも起こしたように身を震わせていたが、今まで何を食べていたのか、赤土の塊りのようなものをたくさん吐くと、そのまま息が絶えてしまった。
 通夜の晩、近所の老人は言った。
 「雄狐よりも恐ろしいのは雌狐だ。魂を奪ったうえに生気をみんな吸いとってしまったのに違いない」と。

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