狐行者と川楊

 幹線用水路は大谷の外れの水門で別れ、貫抜川に合流するが、その少し手前の中新田境の田んぼに、護摩堂という地名がある。文字で書くと護摩堂だが地元ではごまん堂と呼んでおり、古い文書には湖満堂あるいは胡満堂と記したものもある。
 昔、この辺りに大きな池があって、その池畔に堂宇があり、文永八年(1271年)九月十三日、日蓮上人が佐渡流罪の折ここへ立ち寄られたら、一夜のうちに池一面に蓮の花が咲いたので湖満堂と呼ぶようになったという伝説もあるが、この地の豪族が出陣に際して武運長久の護摩を焚いた、という話も伝えられている。
 蓮の花の伝説である「湖満堂」の話をもとにすれば妙元寺の開基、ときの地頭秋元刑部にもかかわり合いがあるので鎌倉時代中・後期のことと考えられるし、護摩堂があったということを中心に考えれば平安時代末期の話だろここのお堂に白衣白髪の行者が住んでいて村人たちに医療を施していたが、いつも二匹の狐を従えており、難病を救われた人たちが「床上げ」の飲食(おんじき)を持参すると合掌してこれを受け、床下の狐にも分け与えたというので、誰言うとなく狐行者と呼ぶようになった。
 蕗(ふき)のとうがほうけ始めた春浅い或る日、近くの水田で田うない(田起こし)をしていた百姓老人が、手足の激しい痛みに耐えかねてやっと這いずり上ると田島の枯れ草の上に身を横たえた。今でいう急性の神経痛で、冷たい風にさらされ、冷えた水に浸ったための発病だったのだろう。
 老人は身動きもできず、仰向けになったまま大空の中心を見つめていると、その青さの中に吸い込まれて、誰もいない田島の枯れ草の中で自分の一生が終わるような気がしたが、百姓が田畑を守って死ぬということに悲しみも悔いも感じなかった。この痛みの果てにお迎え(死)がやってくる。そう思って痛みに耐えてじっと目をつぶった。
 枯れ草を踏んで近づく足音を聞いたがもう自分では体を動かすこともできなかった。誰かが濡れた野良着を脱がせて、その乾いている部分で手足の汚れを拭き取ってくれていることはわかったが、目を開ける気力もなかった。
 毛皮で包まれたような温もりを感じたが、それが何であるかはわからなかったし、手当てをしてくれている人が誰であるかも見当がつかなかった。
 だが、そばに脱いでおいた布子半纏(ぬのこばんてん)で腰から下をよく包み、更に枯れ草を積み重ねて風除けにすると「このまま休んでいれば痛みはとれる」と言い残して立ち去る気配に首をわずかに横にすると、二匹の狐を従えて視野から消えていく狐行者の姿が目に映った。さっきの足のぬくもりは狐が体を寄り添えていてくれたのだ、と気がついた。
 老人は痛みがだんだん薄れていくのに気づき、白い雲が動くともなく動いているのを薄目を開けてじっと見ているうちに、いつの間にか眠ってしまった。心配して捜しにきた家族が、立っている農具の柄に気がつきその傍らの枯れ草の中に眠っている老人を見つけ、死んでいると思って大騒ぎしたのはもう日暮れ時で、案山子に使った古竹の切り口が風で笛のように鳴っていた。
 老人の手足が木の皮で幾重に巻いてあるのには驚いたが、それは近くに生えている川楊の若枝をむいたものだった。
 眠りから呼び起こされた老人は、手足の痛みが嘘のように消えているのに気がついた。過重な労働に明け暮れる農民は、昔から中年を過ぎると必ず手足や腰が痛むようになり、特に肩や腕の痛みには苦しんだが、これを四十肩とか五十腕などと言って百姓の宿命であるかのように諦めていた。然しその苦痛から逃れることができるとなればまさに天の助けであり、行者は救いの菩薩である。
 川楊の薬効を教えられた百姓たちは、その皮を巻いて痛み止めにしたり、小枝を細かく刻んで風呂に入れて薬湯にしたりしたが、手に負えない重症の場合は狐行者に手当てや治療を依頼した。高熱で手足の節々が腫れ痛む悪疫が流行したときは、二匹の狐が家々に薬を運んでくれたという。
 足の骨を折った若者が、とても元の体にはなるまいと半ばあきらめながら狐行者に手当てを頼んだら、川楊の細い枝を簀(す)に編んで、寿司を巻くように幾重にも足に巻き、その上に同じ川楊の繊維で縛って固定してくれた。
 ひと月程たったら骨が接着して歩けるようになったので、周りの人たちもともども川楊の成分が骨になるものと思った。
 このことについては江戸時代の漢方医も、川楊に含まれている成分が毛穴から吸収されて骨になると書き残している。
 傷寒(激しい熱病)には川楊の若芽を煎じたものが特効がある、と教えてくれたのもこの狐行者だった。
 お堂の周りには川楊が沢山あったから、村人たちはその教えに従って枝を折って持ち帰り挿し木にして殖やしたので、今でも海老名の地には宅地のまわりや庭先にまで川楊が多いのだと言われている。
 中新田、社家、中野など相模川沿いの水田地区の集落では、一月十四日に団子を川楊の枝にさして焼く風習があり、これを「入手し易く、水分が多くて燃えにくいからだ」と説明した民俗研究家がいたが、言い伝えによると、あぶられて滲み出る樹液に解熱効果があるため、団子にしみこませておいて風邪などのとき医療用にするためだとされている。
 ひと握りの飯を拳の中でよく練りつぶし、団子のような小さなおむすびにして、川楊の細枝にさして焼いたものが、やはり風邪の薬として民間療法に使われていた事実と照合すれば、言い伝えのほうがより合理的・科学的である。
 西洋医学が主流となって久しく、漢方は迷信だ非科学的だと長い間、日の目を見なかったが、この川楊も例外でなく、明治以後は医療に用いる人もなくなり、用排水路の土手などに生命力のたくましさだけを見せている。
 七百五十年の昔、大谷城の城主大谷四郎がこの川楊を矢傷や刀傷の治療に使ったと伝承されているが、「一木一草と言えどもこの地にあるものはすべて我が味方なり」といって、あらゆるものを戦術戦略に用いた智将のことだから、なる程とうなずける。しかし、川楊の多方面に渡る薬効と療法について詳しく伝えたものはない。
 この狐行者は霊狐と共にいつともなく姿を消したと言われており、その後のことについてはわかっていない。
 承久の変(1221年)に、渋谷重国の長男吉岡太郎光重が、北条泰時に従って戦功があり、薩摩高城郡の五カ庄を賞賜され、六人の子供のうち長男重直のみ早川城に残し、次男以下六男まで引き連れて宝治二年(1248年)はるばる九州の新領に移っている。このとき、沢山の技術者工人たちを連れて行ったといわれているので、或いは狐行者も大谷四郎に乞われてともに移住したのではないかとも考えられる。
 狐行者が身にまとっているものが中国古代の道服に似ているので、宋よりの帰化人かも知れないと話してくれた博学の老住職がいたが、この行者を描いた「射干(しゃかん)行者絵巻物」(注)というのが杉久保の某家にあるということである。 

(注)射干・・野干とも書き、狐の別称である。

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