狐の復讐

 東名高速の海老名サービスエリアのために広大な土地が買い取られて、墓地なども移転したが、大谷側の通用門のそばにあった権現堂もほかへ移された。
 この辺りの土地は権現堂があったため、そのまま″権現堂″という地名になって呼びならされていたが、杉久保にかけて昔は深い山林で狐などもたくさん住んでいた。
 明治中期のことである。ある家の息子が、午前中の野良仕事を終えて帰りにここを通ったら、子狐を何匹か抱えた親狐が横になって日向ぼっこをしていた。よせばよいのに脅かしてやろうと、その鼻先へどすんと鍬の背を打ち下ろした。子狐が驚いて飛び上がったのを見て面白くなって、追いかけてはすれすれの所へ鍬の背を打ち下ろした。
 殺すつもりはもちろんないのだが、狐は必死である。逃げ惑う子狐を助けようと親狐は死にもの狂いで誘導したが、やがて追いつめられた子狐を後ろにかばうと歯をむき出して、捨て身の攻撃姿勢をとった。その親狐の気迫におされてぞっとした息子は、鍬をかついで引き上げたが、何とも言えない後味の悪さが四、五日消えなかった。
 その後、一カ月ばかりしてここの家で女の子が生まれた。土地の習俗で、男子は生後三十二日、女子は三十三日に宮詣りするが、それまでは魔除けに赤子の枕元かふとんの下に刃物を入れておくが、もうお七夜も過ぎたというので、姑が初孫かわいさから産婦の床から自分の床に引き入れて一緒に休んだ。
 夜中に目を醒ましたら抱いて寝ていた赤子がいない。さあたいへんである。夜明けとともに隣近所にも話して、捜して貰ったが見つからない。周りから責められても、姑は抱いて寝ていた赤子がどうして夜中にいなくなったのか納得がいかないし、不思議でならない。
 あてもなく捜し回った近所の人たちは、疲れ果てて帰って来たが、上り框(かまち=床の端にある横木)に腰を掛けたまま沈みきって、誰もひと言も口をきかない。
 そのとき、煙草の火玉を土間に落とした近所の老人が、きせるの雁首でそれを拾おうとして前かがみになり、何気なく縁の下を覗くと、赤子の産着のようなものが目に映った。「それっ!」というので家人が床下にもぐって見たら、赤子が喉を噛み切られて死んでいた。
 周りの人たちは、赤子が乳臭いので猫がくわえ込んだのだろうと判断したが、息子はあのときの親狐の復讐に違いないと思った。年寄りたちは、お宮詣りが済むまでは昔通りのしきたりを守るべきだと囁き合った。
 床下に赤子の死骸が引きずり込まれたり、腰を掛けたまま床下を覗き込んだりするというのは、近代住宅に生活する人には理解できないかもしれないが、戦前の農家作りの家を知っている人には納得できることと思う。

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