ごぜの遺した不思議な三味線

 厚木下宿の安宿に泊まっていたごぜが、手引きを亡くして途方に暮れていた。
 ごぜというのは、三味線を弾きながら歌を歌い、門付けなどしてさすらいの旅をする目の不自由な女の人のことで、一人では旅ができないから必ずもう一人の女の人が手を引いて連れて歩くので、「ごぜの旅」と言えば「せきぞろ」(注)とともに二人達れの代名詞となっていた。
 その案内役の手引きが旅先で亡くなってしまったのだから、門付けは勿論流しもできない。
 しかし、声もよいし三味線も上手なので、何とかして路銀を集めて故郷へ帰れるようにしてやろうと、下宿の顔役であるごったく屋の主人がいろいろ骨を折り、役人に書き付けを貰ってやったり、宿から宿へ送り届ける方策を立ててやったりした。
 ごったく屋は親切で義侠心があり、行き倒れなどがあると身銭を切っても先に立って始末したので、周りの人たちから頼りにされて種々雑多な問題を持ち込まれ、いつかごったく屋と呼ばれるようになったのだから、周りの者もこの人に頼まれると協力しない訳にはいかなかった。
 ごったく屋の口利きで、座敷を貸して近所の人にごぜの音曲を聞かせて金を集めてくれるという人も現れ、路傍に立って投げ銭に頼らなくてもすむようになった。
 このごぜは片時も三味線を手元から離さず、夜は抱いて床に入り「越後へ帰ったら母さんに会わしてやるでのう」と、よく独り言を言っていたが、これは三味線への語り掛けだった。
 この太棹は定めし腕のよい職人が精魂込めて作ったものであろう、音色が美しいばかりでなく、聞く人の腹の底までしみ入るような響きを持っており、バイオリンでいうならばストラディバリかグヮルネリのような名器だったに違いない。
 かわいそうなことに、このごぜもふとした風邪がもとで三味線を抱いたまま安宿で息を引きとったが、昔のこと故、生まれ故郷もはっきりしないまま無縁墓地に葬られてしまった。
 しかし、三味線は名器だということで近くの義太夫の師匠が譲り受け、更に手から手へ渡って大正の初期には海老名のある義太夫の師匠が秘蔵していた。
 この三味線には狐の皮が張られていて、空気が湿って猫皮の三味線の鳴りが悪いときは逆によく鳴るので、師匠は天侯によって猫皮と狐皮の三味線を使い分けていたというが、流しや門付けの場合は雨の中でも三味線を弾かなければならないので、ごぜは湿気に強い狐皮の三味線を使っていたものだろう。
 師匠がこの三味線を不思議だと思うようになったのは、芝居の出語りでも義太夫の弾き語りでも、親子惜別の場面になると必ずどの糸かがぷっつり切れたからだそうだ。
 糸が切れるのは「三十三間堂棟木の由来」の中での「木遣り」の段とか、「千代萩」で正岡が我が子の死骸に抱きついて泣き悲しむ場面とか、「寺子屋のいろは送りとか決まっており、鳴りもよくいよいよ油が乗ってきたというときに必ず切れるので、あらかじめ調弦した三味線を用意してそばに置いたということである。
 その後この三味線が怖くなり、家族の強い要望や親戚の勧めもあって、供養料を添えて菩提寺へ納めてしまったそうである。この三味線がどうなったか、その後のことは聞いていない。 

(注)せきぞろ・・節季(十二月末)に候(そうろう)の意味で「節季候」と書く。昔、毎年十二月になると「せきぞろ、せきぞろ」と言いながら二人一組で踊り、金や米を貰い歩いた遊芸人のこと。

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