長池の話

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ページ番号1000835  更新日 平成30年2月28日 印刷 

八里橋無し九里の土手 七里長池六本松
これは、古くから歌われている「俚謡」だが、海老名の民謡としては最も古いものではなかろうか。「七里長池」というのは、遠い昔、相模川が海老名台地の下を流れていた時の跡が、そのまま七里にわたって長い池のような形になって残っていたのを呼んだもので、その長池に添った台地を「九里の土手」と言い、九里の土手と七里の長池は対句となって、詩歌や俗謡その他の文芸作品などにも残されているが、七里長池と言っても、ここでいう一里(注)は六町をもって一里としたので、実際には約四千六百メートルである。
したがって、九里の土手も約六千メートルということになり、三十六町を一里とした考え方では合わなくなる。「六本松」は、一里毎に植えた松が、六本残っていたのをさしたのだという。「八里橋無し」は、どの街道をいったものか、古くから諸説があってはっきりしない。
相模川は、天安三年の大洪水で西に移動したと伝えられているので、長池はその時にできたものだろう。
この細長い池の形で残った相模川の跡は、その後長い年月の間に、大地から流出した土砂や相模川のはんらんによる沖積によって次第に埋まり、分断されていくつもの沼になった。
大谷地区では、国分境の上沼、如意輪観音堂前の中沼、清水前杉久保境の下沼と六つの小さな沼があった。六つの沼は、現在地名となって残っているが、上沼は江戸中期まで上根岸に池となって残っていた。
大谷の中央には、断層による大きな谷戸があり、この大谷戸が地名の起こりだが、長池はこの谷戸の奥まで入り込んでいたので、鎌倉時代の豪族大谷四郎は台地に居館を構えるに当ってこれを濠として、北面と西面の防備とした。
宝治二年、一族と共に九州の薩摩(塵児島県)へ移動した折、恩馬三郎と共に長池を下って相模川の川口へ出たというから、当時の長池は相模川につながっていたものと思われる。その後、長い年月の間に土塁の土や谷戸に張り出した出館(でやかた)の土などが流出して長池を埋め、更に耕地へ半島のように突出した天井川を作った。この天井川となった谷戸川尻の高い土手が、三反襠(さんだんまち)ともいう後の三左待ちである。この土手は、宿の出口から百メートル程の所で直角に南に折れて、観音堂前の中沼地区を包んでいたので、この一帯は相模川のはんらんによる水害を全く受けることのない美田となった。
六本松の一本がこの辺りにあったのだろう。この地を松の木下と呼び、上田は四石田と言われ、一反十俵の収穫があったともいわれている。
清水前、杉久保境の下沼も次々に埋まって水田となったが低湿な下田で、すぐに冠水して百姓を苦しめたが、耕地整理後もよく冠水する耕作者泣かせの地域であった。
有馬地区に残った長池は、そのまま長池堀と呼んだが、川といわず堀といったのは、川には必ず水源があるという考えに基づいたものだろう。
長池堀は、耕地整理後に排水路として、改修延長され建設省はこれを一級河川長池川と名づけたが、もともと長池川という川は無かったので後世の人達は、長池川がいつのころからあったのかわからなくなるかも知れない。すでに戦後生まれは、長池川が昔からあったものと思いこんでいるようである。
有馬地区にあった曽つての長池には三間棹(5.4メートルの竹棹)が届かない…底が知れないという深い所があったが、大きい鮒がよく釣れた。文政のころ流行したという「ものは付けに、大きいものは長池の鮒」とあるくらいだからよほど有名だったのだろう。鮒が大きいため、鯉との区別がつかない子供たちが「鯉にひげあり、こけら(鱗)三十六」といって見分けたので、その言葉は大正のころまで、子供たちの間に言い継がれていた。こけら三十六というのは、側線の鱗が三十六枚あるということである。
ここでは、時々大きな鯰も釣れたが、当たりが強いのではりすが切れることが多かった。日露戦争の直後、戦勝気分にあおられた地元の青年たちが、長池を途中でせき止めて魚を捕ることを計画した。杭を打ち込んで厚板を張り、消防の搬水桶まで持ち出して水を汲み出したが、水位が下がるにつれて内と外との水圧の差が大きくなり、半分も汲み出さぬうちに杭もろとも総崩れになって、元の木阿弥になってしまった。もともと、深い沼地だから地盤が弱く、短い杭などで持ちこたえられなかったのである。
この時捕れたのは、穴から暴れ出した大鯰一匹だけだったが、大きな網ですくい上げたら三尺(90センチ)もあり、口のまわりに「白いひげ」が一面に生えていたので驚いたそうだが、切れたてぐすが針と共に残っていたのだった。
このことを又聞きした人が言いふらしたので、「長池の鯰には白いあごひげが生えている」とよその土地まで評判になった。

(注)一里
古い時代には六町(654メートル)を一里とした。その後徳川家康が三十六町を一里として統一しようとしたが徹底できなかった。明治九年に始めて全国的に一里を三十六町(3千927メートル)に統一した。七里ケ浜や九十九里ケ浜などは古い時代の六町を一里としたものである。

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