麦打ち歌「嫌だ節」

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ページ番号1000829  更新日 平成30年2月28日 印刷 

私が子供のころ、近くの老夫婦がいつも面白い話を聞かせてくれた。二人とも若いとき村内の同じ農家に奉公していたのだそうで、古いことや地元のことなど何でもよく知っていた。
この老夫婦は子供がおらず、手作りのものを惜し気もなくごちそうしてくれたが、蒟蒻作りが得意で、丸めた蒟蒻団子に味噌をつけ、串を刺して炉端で焼いたものは特にうまかった。
大変仲が良くて、お互いに冗談を言い合ったり、駄洒落を飛ばしたりいつも明るかったが、同じことを何度も聞かされるのには閉口した。味噌田楽を作る度に、「これは夜食うものだ。だからこんやくうというのだ」などは、その都度聞かされた。
しかし、そのために俚謡、俗歌、昔話などたくさん覚えた。よく覚えているものにぼうち歌がある。ぼうち歌とは「棒打ち歌」のことで、普通は麦打ち歌というが歌い出しが「嫌だ、嫌だ」で始まるので「嫌だ節」と呼び、麦打ちの大変さをよく歌い表している。
脱穀機のなかった時代には、千歯で扱(こ)いた麦の穂を玄穀干し(注)にして直射日光でよく乾燥し、そのまま炎天下で棒打ちしたのである。
棒打ちに使うのはくるりん棒という農具で、丸太が回転して落下する力を利用するという原始的で非能率的なものだが、大量の麦を調整するにはこれより他に方法がなかった。
太陽光線の強いうちに処理しないと粒離れが悪くなるので、日盛りの炎天下での作業で、人間もともに土用干しである。この作業は大勢でやったほうが張り合いもあって能率も上がるので、大抵一家総動員で、ときにはお互いに時間のやり繰りをして、隣近所や親せきの手を借りることもあった。大抵、男は半裸体で、女衆たちも上半身は岩戸の天鈿女命(あめのうずめのみこと)のようなおおらかな姿であった。
こうした単純作業を大勢で続ける場合、速度や呼吸を合わせるためには自然と歌や掛け声、噺し言葉が必要となる。「嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。下着襦袢も汗びたし。嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。はちまき手っ甲も塩を吹く」と、同じ節を二回歌うと噺し言葉が入り、音頭取りが一段と声を張り上げて噺すのだが、これが面白い。
「嫌ならよしゃがれよし兵衛の子になれ、ペンペン弾きたきゃ太夫の子になれ」とか、「嫌ならよしゃがれ食わずに寝ていろ。仕事が嫌なら蝉の子になれ」などと、威勢のよい噺し言葉がぽんぽん飛び出した。
即興的なものも多かったようで、「嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。脇の下まで芒(のぎ=麦の殻にある針状の毛)だらけ。嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。へその中まで芒が刺す」などに続いて、「へそでよかった。もちょっと下ならそれこそ大変」などという噺し言葉もあって、腹を抱えて笑いながら聞いたが、後になって意味がわかって笑いが込み上げてくるようなものもたくさんあった。
麦打ちはひと区切りつくまでは休めないし、途中で脱落することもできないので、「嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。胸も背中も汗の滝」などと、その苦しさを切実に歌ったものも多かった。
長時間にわたるときは、「嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。これじゃミイラになるばかり。嫌だ嫌だよ麦打ちゃ嫌だ。人の干物を作る気か」と、悲鳴に近いものまであったが、続く噺し言葉に、「汗が流れて下まで下がりゃ、これがほんとの玉の汗」などというのもあって、辛うじて気分を転換させたのだろう。
「よたよたするなよ力を出せ出せ、すぐにお茶だぞ」と元気付けると、「茶菓子はこがしだ。むせずに頬張れ」と続けたり、「お茶といってもひえの団子がふたつばかりじゃ、みっともないけどよろけるはずだよ」と受け継ぎ、さらに「いやいや違うよ、むすびがななつにやき餅ここのつ、とおまでいいんだ」と、掛け合いの形で一から十まで歌い込んだ噺し言葉もあった。
掛け声は終始「どっこい、どっこい」だが、アクセントが「ド」につく場合と「コ」につく場合、「イ」につく場合があり、音程の変化は完全五度で繰り返した。
嫌だ節が得意だった老夫婦は、ともに歯がなかったので、お婆さんの歌もお爺さんの噺し言葉も、息切れで旋律や一音一音の区切りがはっきりしないところもあったが採譜した。民謡などの古い歌を採譜すると大抵後で、どこが違うとか、ここがいけないとか指摘されることが多い。しかし音符のなかった時代のものだから、どれが正しいかは誰にも判定はできまい。麦打ち歌は全く歌われなくなったが、囃し言葉は最近まで道普請の杭打ちや、地形(じぎょう)の蛸突き、棹突きの「チョーサン節」などになって残っていた。

(注)玄殻干し
むしろをすき間のないように重ねて庭一面に敷き、その上に穀類を干すこと。または土間一面に直接干すこと。

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