河童の誓約書

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ページ番号1000818  更新日 平成30年2月28日 印刷 

江戸時代、相模川が増水すると川止めになりましたが、水が引くとすぐ舟が出たので、江戸を間近にした旅人たちは、たとえ夕暮れ近くでも河原口で馬を雇って先を急ぎました。しかし、馬方たちは、こうした客をなるべく避けようとしました。なぜなら客の多くは次の宿を大和の鶴間にとるので、帰りは夜になってから鶴間原を通らなければならないからでした。
そのころ、海老名の大塚の宿から鶴間の山王原までは、家は一軒もなく、大きな松と杉が生えている山林が荒れ野に続き、夜には狼の遠吠えが闇にこだまして、知らない間に後をつけてきた狼が急に襲いかかってくることもある恐ろしい街道でした。
相模の馬方は、夜や淋しい山道では、馬の鞍の両側から後ろに二本の長い荷縄を垂らして馬に引きずらせて、狼避けにしていましたが、鶴間原を通る馬方は、縄の先に五徳を結わえて引っぱらせたので、これを「鶴間っ原の五徳ころがし」と呼んでいました。
狼には、この引き縄が蛇のように見えたのかも知れませんし、五徳のことを、蛇がくわえた三本足の怪物と思ったのかも知れません。これを見た狼が恐れて近づかなかったという話もうなずけます。
河原口の坊中という所に弥平という馬方がいました。ある日の夕方、客を鶴間まで送り、夜になって五徳をころがしながら帰ってくるころには、大塚の休息所も国分の宿もすでに閉まっていました。気が急いて五徳を引いていることも忘れ、海老名耕地の中央にあった「大釜」という大きな沼の近くへ来ると、何に驚いたのか馬が急に走り出しました。
馬をなだめながら一緒に走って家に帰ると、引き縄の先に妙な動物がしがみついていました。よく見ると河童の子供で、引き縄の五徳を取ろうとしているうちに縄がからみついて、そのまま馬方の家まで引きずられてきてしまったものでした。
大釜の河童に何度もいたずらをされたことのある弥平は、見せしめのため子河童を馬小屋の柱に縛りつけておきました。すると、夜中に河童の親分が来て、「これからは、私たちの仲間は弥平さんには絶対に手出しはしませんから、どうぞ許してください」と、謝りました。「それでは誓約書を書け」というと、「河童は字が書けないので手形だけ押します」といったので、弥平は文書を書いて河童に手形を押させ、子河童を逃がしてやりました。
その後、日暮れに大釜のそばを通ると、河童たちが頭を並べていることもありましたが、「坊中の弥平だ!」というと、「へい、お通りください。気をつけてお帰えんなさい」と言ったそうです。
このことが評判になり、いつの間にか馬方仲間はみんな「坊中の弥平だ」と言ってここを通るようになり、後にはこれが河童避けの呪文となりました。さらに水難から身を守れるということになって、口の中で「坊中の弥平」と言ってから、水の中に入る人もいたということです。

(こどもえびなむかしばなし第4集より)

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