郷礼

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ページ番号1000804  更新日 平成30年2月28日 印刷 

今はすっかり姿を消してしまったが、郷礼(ごうれい)といって元旦に村中を回礼(年賀のあいさつ回り)してあるく習慣があった。
郷といえば有鹿郷、恩馬郷といったように大体数カ村を合わせたものをいったが、ここでは一村の意味である。郷礼の風習は、平安時代から行われていることが文献にあるというが、これは元旦に限らず十五日までの間に済ませたということから、やや趣が異なる。
郷礼をする者は普通、戸主であった。戸主はまた年男といって歳末のあわただしい中で、新年を迎える準備をした。お飾りは大晦日に飾るのを一夜飾りといい禁忌とされていた。そのため大晦日の前日までに山から松や竹を切ってきて門松を立てたり、お飾りを各所へ飾りつけたりした。「お飾りというのだから、できるだけ飾らなくては・・・」といって、時間をかけて手の込んだものが作られた。
そして元旦は、まだ暗いうちに誰よりも先に起床し、若水を汲んで歳神様をはじめ神に供える神酒徳利、木皿などの祭器を洗い浄め、神灯をあげ雑煮を作って供える。このほか大神宮様、ご先祖様、荒神様、裏のお稲荷様など神仏に仕えるのが大切な役目であった。その後、家族一同年賀を交わし雑煮をいただく。明治、大正時代の風習は大同小異このようなものであった。
こうして朝の勤めが終わると隣近所の人たちと三々五々連れだっていよいよ郷礼に出発だ。
家ごとに「明けましておめでとうございます。本年もどうぞ・・・」と挨拶して回る。明治十七年の国分村の戸数は百三十軒であったから、一日がかりだったという。羽織こそ着ていたものの、草鞋ばきで人家が途切れた区間などは尻端折りで歩いたそうである。その後、村を三つに分けて郷礼の範囲を縮小し、私の家の範囲は小字谷戸、日久保、辻、逆川、滝の下のいわゆる大講中約四十戸になった。
しかし小作人は、地主方へは範囲外でも出向いた。地主階級の家では台所に立臼を伏せ、その上に四斗入りの酒樽をすえておき、誰彼となく接待した。酒好きな人にはこれが無上の喜びで、どこの家でも遠慮なくいただき、熟柿のような顔になる人、呂律が回らなくなる人、はては道路で寝てしまう人などよく見かけたものだった。
昭和五年から私は年男を勤めたが、このころは谷戸、日久保中心の郷礼だった。縞の着物に羽織、新調の足袋に桐の足駄で新年を味わって回った。
こうした郷礼も、昭和十二年七月七日の廬溝橋事件をきっかけに、日中戦争に突入してから影をひそめてしまった。
たとえ利害関係から村にトラブルがあっても、この郷礼の習わしは一円融合の平和な村、深い連帯感で結ばれた郷土、という印象を強くしたものだった。

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