大塚っ原の雪女郎

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ページ番号1000796  更新日 平成30年2月28日 印刷 

この土地では若い美しい女性を女郎と呼び、盆踊りなどに化粧して集まる娘の群れを女郎衆などと言った。これは江戸で言った遊女とは全く違った意味のもので、花嫁を「花女郎さん」と呼んだのも美しく清楚なものへの讃美とあこがれであり、女の子たちは小さいころからやがて美しく着飾った花女郎さんになることが夢だった。
吹雪の晩に人の命をねらう伝説の女を雪女と呼ぶ地方もあるようだが、非常に美しいというところからこれも雪女郎と呼んでいる。
江戸時代、大塚の宿に大塚屋という旅館があった。大きくはないが古い旅籠で、代々の主人が実直だったのでそれが家風となり、使用人も一様に親切で細かい所まで気がついたので、江戸から来る大山講の人たちのほかに、道了様や大山不動尊へ月詣りする人たちはここを定宿とする人も多かった。
飯盛女やあげ酌婦を酒席にはべらせ、夜更けまで嬌声三弦のさんざめきが聞こえる旅館もあったが、大塚屋は堅気な女中を二、三人置くだけですべて家族だけで運営していた。
ある晩、あまり吹雪が激しいのでいつもより早めに戸を閉めたが、しばらくすると戸を叩く音がするので主人が出て見ると、若い男女が渦巻く吹雪の中に立っていた。
導き入れると、青白くやせた青年が、「道に迷い難渋している者。一夜の宿を願いたい」という。言葉遣いも折り目正しく、両刀をたばさんでいるから武家育ちであろう。雪よけの大きな布の被りものをとった連れの女は上品な物腰で、ぞっとするほど美しかった。
女中がたらいに湯をとって足を洗うと、青年はしばらくその中で足を温めていたが、女は草鞋と足袋を脱ぐと足を浸そうともせず軽く拭いただけで、そのまま女中の案内で二階に上がってしまった。
主人は早速大きな箱火鉢に、切り揃えた堅炭の小口を梅鉢のように並べ、真っ赤にほこして持っていったが、女は手をかざそうともせず、「風呂を焚いておきましたので温まっておやすみください」と言っても二人とも無言で、女中が並べて敷いたふとんに入ってしまった。
女中は寒がらないお客さんだと思い、主人は育ちがよくてつつましやかなのだと思った。
大塚の宿は風に無防備な地形だったため、どこの家でも宅地にしせきといって屋敷木を植えて風を防いだが、土が砂質で軽いため、春先、大塚っ原特有の龍巻が起こると家の中まで砂塵が舞い込んで、一日に何回も掃除をしなければならないこともあった。
また、冬は吹雪の晩など、屋敷木の枝を揉み立てる雪鳴りはものすごかった。大塚屋は家の周りには欅を植え並べてあったのでその風音は特に強く、その晩も荒れ狂う吹雪は孤島を噛む怒涛のように地鳴りがするすさまじさだった。
激しい吹雪も夜明けとともにおさまったが、雪に覆われた大塚の宿は死んだように静かで動き出す気配はなく、人っ子一人通らなかったが、大山街道も人の通れる状態ではなかった。
大塚屋でもいつになく遅く戸を開け、女中が二階へ朝の食事を運んでいったら、昨夜泊まった二人連れの男のほうが床の中で死んでおり、女の姿は見えなかった。
旅人が宿で亡くなるのは珍しいことではないが、役人の検死を受けなければならない。大雪で届け出が遅れたので役人が来たのは夕刻だった。
検死を済ませた役人に主人が連れの女について説明したけれども、昨夜女中が片付けたという草鞋は一足しかなく、入口の止め金は昨夜主人が内側から締めたままで誰も外へ出た形跡がないので首をかしげていた。
泊まった証拠となるものはないし、出て行ったという説明もつかない。床が二つ並べてしいてあっても人が寝たという証拠にはならない。役人は「あとは適当に始末せよ」と、言い置いて帰ってしまった。
役人が帰ってから、女中が女のやすんだ床を片付けようとしたら、その敷ぶとんは人が横になった形にぐっしょり濡れていた。
その後も美しい雪女郎がこの宿場に現れたり、また、大塚っ原の吹雪の中に現れたりしたことがあったそうだが、その晩には必ず凍死者が出たということである。

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