おむすびはアリの卵

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ページ番号1000784  更新日 平成30年2月28日 印刷 

美田に恵まれ天産豊かな海老名の地は、本来なら一様に王道楽土であるべきなのに、領主の治民方針によってそれぞれの村には大きな格差があり、その犠牲になったのは百姓たちであった。
「塩を売って手もなめられない」という諺があるが、米を作りながら米が食えなかったのが百姓の生活だった。
江戸に近い相模国は幕府の政策によって細分されそれぞれ直参旗本の所領となっていたが、しばしば領地替えが行われたため領民とのつながりがうすく、旗本の中には「取れるときに取れる所からとれるだけ取っておけ」という考えで年貢を徴収する連中が多かったのだから、百姓はたまったものではない。
自然と共に暮らし長寿であるべき農民も、過労と貧しい食生活が続いたため寿命も短く、江戸中期には四十が定命(じょうみょう)と言われたぐらいだから、三十を過ぎると男盛り女盛りなどという言葉とは縁遠く、みんな断食仙人のように痩せ枯れてしまい、栄養失調からくる発病で死亡する例も少なくなかった。
そのころ、村外れの一軒屋に労咳(肺結核)で長く床についている夫を何とかして助けたいと、田んぼの真ん中にある稲荷森の祠に毎晩亥の刻(午後十時)参りをしている貧しい農家の女がいた。
夜参りを続けているうち、ある月夜の晩、束帯の貴人が祠の前に現れて「これを食べさせよ。病気は必ず本復する」と言って三方に乗せた小さなむすびを手渡し「明晩から使いの眷族に届けさせる」と言って姿を消した。
女はこれを神の声と信じ、雨の晩も雪の夜も夜参りを続けた。祠の前にはいつも銀髪の老婆がいて無言で女にむすびを手渡すと、いずこともなく姿を消した。
おむすびといっても山栗ほどの大きさで、米粒を数えたら百粒にも満たない小さなものだったが、女は神様が授けて下さったものと堅く信じ、ていねいに紙に包んで持ち帰って夫に食べさせていた。
それがひと月ふた月と続くうち、衰え果てた夫の顔に赤みがさすようになり、数カ月後には屋内で藁仕事に手を出すほどに回復した。
ほっとした女は久しぶりに当麻(相模原市)の実家に出かけたが日永に気がゆるんで話がはずみ、思わず長居をし、里を出たときは日が暮れて激しい雨となっていた。
稲荷明神のむすびのことが気になるのでひたすら稲荷様へ向かって急いだが、雨の中、蓑笠つけた女の足ははかどらず、祠の前に立ったときは既に亥の刻が過ぎていたのだろう。いくら捜しても老女の姿はなく、激しい雨が降りしぶくだけだった。
むすびは頂けないものと諦めてお参りをすませ、時間に遅れたことを悔やみながら我が家に帰ると、軒先に雨に濡れた老婆が立っていた。すぐに導き入れ、かまどに火を焚いて濡れた着物を乾かそうとすると、まるで動物が毛ぶるいをするように激しく体をふるわせて水滴をはじき飛ばし、いつものむすびを黙って手渡すとそのまま雨の中に姿を消した。
すぐに傘を持ってあとを追ったが老婆の姿は見当たらず、家に戻ってみると乾いた土間に雨に濡れた動物の足跡がいくつもついていた。かまどの上に乗せて置いたむすびを手に取ると、余熱で温まっており、米粒の中から黒い虫が這い出してきたが、それはみんな蟻だった。米粒と見えたのは蟻の卵だったのである。
稲荷森はたび重なる洪水でだんだんに小さくなり、残されていた稲荷明神の祠は安政六年(1859年)七月十五日、相模川の堤防決壊による大水で流失したと伝えられている。このとき、中新田は床上三尺(90センチ)も浸水し、川沿いの村々ではたくさんの死者が出たと記録にある。

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