真鯨

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ページ番号1000737  更新日 平成30年2月28日 印刷 

大谷の地名には変わったものが多いが、代々土地に住んでいる人でも、そのいわれを正しく知っている人は少ない。況や、よそから移住した人は関心はあっても知るすべがない。
そこで聞きかじりによるもの、自己流のこじつけなどが巷間に伝えられ、史実や伝説とはまったく関係のない作り話が、まことしやかに語られる結果となる。
「真鯨」という小字名も、丘の形が鯨に似ているからだとか、小丘をくじと言うとか、いろいろな説や解釈はあるが、昔、この地にあったという鯨竜山大谷寺の伝承や、出土した石碑がこの地に鯨が上がったことを裏づけている。
海老名耕地が入り海であったころというから、国分寺建立前後のことであろう。入り海説は「尼の泣き水」や「船をつないだ杭が根づいた大けやき」などの伝説によって人口に膾炙しているが、相模川の本流はその昔、東側の台地下を流れていた時代があったとみてまちがいはなく、その跡が今も俚謡で伝わる「七里長池」となって残ったものであろう。
相模川の河口で一つになり、幅広くなって外海につながっていたこの長池を、入り海と考えたであろうことも、この長池に鯨が迷い込んだということも十分うなずけることである。
さて、この鯨を追いつめて生け捕りにはしたものの、この巨大な体の怪物が何であるか皆目見当がつかず、、「ふかだ」、「わにざめだ」、「いや、大まぐろだ」と騒ぎ立てているうちに鯨は弱ってついに死んでしまった。
丁度折よく通り合わせた旅の僧がこれを見て、「まぎれもない本物の鯨であるが、昔からコイは滝を上れば剣鱗と四肢を生じて竜となり、上ることのできなかったものはひげと鱗を失って、海に下り鯨になるといわれている。この鯨は再び滝に挑むため遡上したが、方向を誤り、力尽きてここで空しくなったものであろう。ねんごろに葬ってやりなさい」と言って立ち去った。
これを聞いた村人たちは、竜になれなかったこの鯨を哀れんでその死骸を丘に引き上げ、鯨竜山という寺を建てて弔った。これを裏づける石碑が出土したのは大正十年であるが、地元妙元寺の当時の住職、坂本日喜師は、刻まれていた二首の歌を、「滝上る力もつきし真鯨よ、静かに眠れ夕日映る丘」「竜となるねがい空しき真鯨に入り江の丘は荘厳の褥」と解読され、鯨竜山は西丁(真鯨地区の西部)の台地にあったのではないかと説明された。
この二首が真鯨の地名と深い関係があることは疑う余地はない。

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