秋葉山騒動

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ページ番号1000736  更新日 平成30年2月28日 印刷 

鎌倉時代の初め、市内で最高峰の上今泉の秋葉山中に白雲という老人が、世を避け、人目を忍んで暮らしていた。
白雲は中国から帰化した人で毎年春秋の二期、大山丹沢の山波がくっきりと澄む天地晴明の日を選んで胡服(中国の北方民族の着ていた服)に着替え、故国の空に向かって一心に読経するのを行事としていた。
また、仲秋名月の夜には、わざわざ天壇(天を祭る祭壇)を築き、同族の者たちの参加に老人は胸をはずませる。いよいよその刻限になると五十人、時には百人もの人たちがどこからともなく風のように集まって来て、かの天壇にひざまづき狂気のように読経をする。そしてその果ては遠い故国をしのんでか、一同声を立てて泣き叫ぶのであった。
その声は辺りの森に陰にこもって空恐ろしくせい惨な雰囲気をかもし出すのであった。やがてそれが静まったかと思うとこの人たちの群は霧のようにかき消えてしまうのだった。
正治二年(1200年)のこと、かねてから白雲たちのこの行動を快く思っていなかったこの地の地頭は、一族と村人を率いて白雲の草庵を急襲し彼を殺害してしまった。そればかりでなく、白雲が守っていた墳墓を掘り返し、埋蔵されていた宝鏡、宝剣、神玉を取り出し私物化してしまったのである。
この宝鏡については「神鏡、景初年中(237年~239年)と伝ふ」(鷹倉社寺考)とあるから、中国は魏の時代に製作されたものに違いあるまい。ひょっとするとかの有名な三角縁神獣鏡であったかも知れない。
この暴挙はたちまち幕府の知るところとなった。国王の墓をあばき、その縁に当たる者を斬殺した罪は軽くないと、地頭とその一族は捕らえられて鎌倉の刑場の露と消えた。なお、これに加担した里人もことごとく滅ぼされる羽目となった。
この後、村人たちはその怨霊の報いを恐れて秋葉山中に足を踏み入れる者は一人もなかったという。
さらに後年これらの諸霊を慰めるため石の祠一つを建て、近くの寺の常泉院持ちとしたというが、それらしいものは今日見当たらない。

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